2016.07.25 Monday

コタキナバルの旅

 2月20日の土曜日は「マリマリ文化村」ツアーである。こうした文化村の見物は通り一遍のものが飾ってある場合が多く面白くないが、この文化村の見物は面白かった。この村はコタキナバル市から25分で行ける。そのために前日とは違って集合時間は遅く8時45分である。ブルネイに行く組とゴルフ組と別れた。この村はバジャウ族、ルンダヤ族、ムルゥ族、ルングス族、ドゥスン族の5つの少数民族の暮らしぶりなどを再現した村である。

 案内役のビーさんの下で17人が行った。5つの村のそれぞれの文化と生活が再現されている。お酒を造っているところでは実際にお酒を飲んだが、日本のどぶろくの味である。土人の姿を再現しており、われわれ見学者が刀と服を着て記念写真を撮った。私も笠をかぶり、刀を付けた格好の写真を撮った。今、見ても面白く記念になった。

 各建物などは床から高くしており敵が入らないようにする配慮と湿気を防ぐためのようである。各建物でも一番上が寝るところになっていた。首狩り族の展示もあった。

 民族舞踊のショーが1時過ぎからあった。男と女がそれぞれの民族衣装を着けて踊った。台湾で見た高砂族の踊りと変わりはないが、マレーシアの民族の踊りはそれなりに面白かった。楽器などもそれぞれの民族で違っており音も変わったものもあった。それぞれの民族の音楽は違っており、それなりに音が良かった。

 昼の食事は現地のマレー料理であり、飲み物は別料金だが、現地のビールを飲んで料理を食べた。午後2時30分にはホテルについて休んだ。

 この日の夜は午後5時30分に集合してマーケットを視察した。マーケットではいろいろなものが売られていたが、大谷武彦・団長がバンドを買っていたので、バンドを一つ買った。日本円で500円ぐらいである。日本でこのバンドを使っているが調子が良い。

夜は海鮮料理の店「カンポンネラヤン」である。民族ダンスショ―を見ながら、エビやタコなどの魚を食べた。この店は大きく、お客も多くコタキナバルでは有名だそうだ。この日は二つの民族ダンスショーを見たことになる。

 

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2016.02.28 Sunday
しばらくお休みしていましたが、年賀状などで「どうしてブログに書かないのですか?」と言う声があり、今日から月に3回は書くようにします。
 従心会倶楽部でマレーシア・コタキナバルに4泊5日で行く。 従心会倶楽部と言うのは飛島建設の海外部門で活躍した大谷武彦氏が作ったもので、会社の従業員教育や海外進出などの相談にのっている。飛島建設にいた近藤嘉彦さんから紹介されて入会した。このクラブで海外研修旅行で2月18日から22日までの日程でマレーシアの観光地のコタキナバルに行くというので参加することにした。京都から参加した人などがおり33人になった。初めてのコタキナバルであり3回に分けて旅行記を書く。
| 旅行 | 18:30 | - | - | pookmark |
2009.06.26 Friday
アクティブ・シニアの会というのがある。会社を定年になっても元気に社会活動をしようという会である。東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)のOBである平松健治さんが中心になって活動している。東京銀行にいた若林支郎さんから誘われてこの会に入っている。この会に日本興業銀行にいた山本修滋さんがいた。山本さんは私が朝日新聞の経済部で日銀を担当していた時に産業調査部長をしており、その後、大阪支店長などした。興銀を退職してから大同特殊鋼の専務をしていた。
 ある時に「倒産した日本特殊鋼のことについて、渡辺一族の争いを書いたら面白いよ」という話になって、関係の本を貸してもらった。私は再建王と言われた早川種三さんのことを書いた「必ず会社は再建できる」(中経出版)の中で、日本特殊鋼も早川さんが再建したうちの1社であり、関心もあった。
 この山本さんとアクチブシニア・シニアの会で米国の金融危機についてマクロは山本さん、ミクロのビック3の倒産のなどは私の担当で発表した。面白かった、と評判であった。その山本さんが「今度、私の入っている清川カントリークラブの連中で、木曽駒高原カントリークラブでゴルフに行くのですが、1人空いているので来ませんか」と誘われた。大同特殊鋼の寮に泊まって翌日プレーするという。
 私は23年前に名古屋本社経済部のデスクを約3年勤めて、毎年夏に木曽駒高原に泊り込みでゴルフに行っていた。ゴルフ場の中の川に飲み物がおいてあり、それが名物であった。この誘いにすぐにOKした。2組8人でプレーすることが決まった。
5月28日に木曽福島の駅に集まりそこからクラブ場で大同の寮に行く。私は新宿を正午に出る「あずさ26号」で塩尻まで行き、そこで乗り換えていくことにした。山本さんが待っていてくれ、ほかの人は「奈良井宿」を見てくるので、その人たちが来るのを待って寮に行った。4年前に建て替えたというきれいな寮であった。料理も名物の馬刺しが出て、地酒も飲んで翌日に備えた。王子製紙のOBの人、三菱商事のOBの夫婦と山本夫妻の6人のほかは近藤厳嗣さんという自称ゴルフしかやっていないという8人である。雨が心配であったが、東京は大雨なのにここは降らずにプレーできた。スコアは103で8人のうち3位になった。久しぶりの川の中のカンのお汁粉がおいしかった。
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2009.06.02 Tuesday
昨年12月に日比谷高校の友人と忘年会で「お魚を食べる会」を千葉県館山でしたことはこの欄で書いた。その時に今度は新緑の軽井沢で、と言うことになり私が幹事になった。その時に友人の西川寿子さんが「軽井沢の近くの松井田に大河原君がいるはずで、野菜か何かを作っているらしいよ」という話が出た。大河原新太郎君の親類の太一郎さんは農林省の事務次官までした大物である。私が農林省の担当の時には大河原さんは何かと「おい、阿部ちゃん新太郎に会っているか。よろしく頼むよ」と言っていた。早速、大河原君住所を調べて、会うことになった。大河原君は慶応大学に行った後に、協和銀行(現在のりそな銀行)に勤めて、引退している。プレスセンターの10階のアラスカで久しぶりにあった。
 「今度、高校時代の友達7人ぐらいで軽井沢に行くのでその時に君の家に行きたいんだが」とお願いした。大河原君は「大歓迎だ。いま、ブドウを植えてワインを作っているところだ。ピーマンなどは自分たちで作っている。その日は慶応の友人が来て作業をしているので、丁度いい。紹介する」ととんとん拍子に話しが進んだ。
 連休明けの5月10日にJR武蔵野線の南浦和駅で待ち合わせて、成田秀明君と加藤征乃夫君の車に7人が同車して大河原君の家に向かった。天気は快晴で絶好の旅行日和である。大河原君の家は街中にあり大きな駐車場もあるので、すぐに分かった。大河原君は「よく来てくれた。作業が終わって昼飯なので一緒に食べましょう」と慶応の人たちで囲炉裏を囲んでビールやウーロン茶を飲み、ここで作ったハムや野菜を食べた。その後、ブドウ畑まで案内してくれた。ブドウの苗を植えたばかりなので、「これがどうなるか、心配だ」と言う。
 6月には仲間でフランスにブドウ酒作りのために勉強に行く、という。高輪に家はあるが、週末は松井田に来て農作業をしている。西川さんは畑仕事をしているので大河原君といろいろな話をしていた。できた野菜をもらって2時過ぎに軽井沢に向かった。東急ハーベストクラブで泊まり、この日の夜は駅前の「三喜」で馬刺しと桜なべを食べて元気をつけた。
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2009.04.20 Monday
 私の日本プレスセンターの事務所に白黒の写真がある。埼玉県・飯能の神社の前で、祖母のはなさんと母のきみと姉の恭子、妹の通子と順子と私がいる。たぶん私が小学校の1年ぐらいの時の写真である。夏で半ズボンをはいている。母の故郷が飯能にあるので夏になると西武池袋線に乗って行った。一人で行くときもあったが、そういう時は電車に酔って気持ちが悪くなったことも多かった。
 祖母のはなさんが、面倒を見てくれた。その当時、16人兄弟だった母は長女で一番下は博さんであった。博さんは当時まだ高校生で時々、そばの入間川に遊びに連れて行ってくれた。天覧山にも上った。昔の写真は博さんが撮ってくれたものである。高校生でカメラを買ったので良く山の写真などを撮っていた。
 母の弟の義雄さんが肺炎で83歳で亡くなったという知らせが、奥さんの容子さんから来た。私にとっては叔父でもあり葬儀に行くことにした。9日に通夜で10日に告別式だという。通夜に行くことにした。飯能までは池袋からレッドアロー号に乗り45分である。昔は2時間ぐらいかかっていた。女房と池袋で待ち合わせて行った。
 車窓から見る風景は昔とは大違いでマンションや住宅がびっしり立っている。飯能についてタクシーで10分ほどの広域飯能斎場で行われた。蓉子さんと娘さん2人が迎えてくれた。博さんもご夫婦で来ていた。博さんにとって義雄さんは親しい兄であり父親代わりであったようだ。博さんも高校生の時代とは違い、学校の校長先生を終えて、年金生活である。1人息子が医者になっているので、我が家の娘も2人とも医者なので話が合う。息子さんは現在、群馬県で病院勤務をしており、この日も夜8時過ぎに家族3人で駆けつけた。小さい時に飯能で遊んだことがあるようで懐かしかったのだろう。
 通夜は禅宗の曹洞宗のお坊さんの読経で始まった。すでに義雄さんを知っている同僚も亡くなったりして親類が多かった。娘さんの一人が神奈川県庁に勤めているので神奈川知事の花輪があった。私も女房と連名で花輪を送った。義雄さんの戒名は「空 春契義昌信士霊位」となっていた。帰りは桜の花びらが舞う中を博さんの車で飯能まで送ってもらった。
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2009.03.09 Monday
 近藤節夫さんとは観光関係のNPOである「Japan Now 観光情報協会」の活動を通して知り合った。小田急電鉄の「小田急トラベル」の社員として働いて、定年になってからこの協会の活動を始めた。小田急電鉄の広報部長をしていた岡村進さんが小田急トラベル社長で、協会の副理事長をしている関係で協会に入ってきた。近藤さんは私が日比谷高校でラグビーをしていたことを知り、話しかけてきた。近藤さんは神奈川県の名門高校である湘南高校でラグビー部の主将を務め、OB会の会長でもあった。東大のラクビー部で一緒であった大島くんも湘南高校だったので話しが弾んだ。
この近藤さんから「定年オヤジの海外武者修行」(早稲田出版)という本を出したので、出版記念会を開くという連絡が来た。近藤さんは旅行会社にいてツアーコンダクターの仕事をしていたこともあり、旅についての経験は豊富である。既に「現代・海外武者修行のすすめ」(文芸社)を出版しており2冊目である。
記念会は2月10日に「ハイアット・リージェンシー東京」で開かれた。少し遅れていったところ、既に小中陽太郎さんの挨拶が済み、尺八の演奏が始まっていた。近藤さんの知り合いであり、出版記念にと演奏した。会場には協会の岡村さんや寺前秀一・高崎経済大学教授などが来ていた。近藤さんは奥さんと一緒に正面に並んでみんなから挨拶を受けていた。
この本は最初に近藤さんが慶応大学時代に60年安保で闘った記録が出ている。当時、湘南の先輩の清水丈夫さんについて闘っていった。その後、清水氏は東大紛争で警察に逮捕された。当時の闘士である今井澄氏や葉山岳夫氏などの懐かしい名前を書いている。こうした学生運動の経験から、近藤さんはベトナム戦争が始まる前の南ベトナムに旅行に行った。さらに中東紛争のアンマンにも行った。
こうした経験から定年オヤジの旅行についても「一人旅」を勧めている。一人で行くことで意外なことの経験をする、という。定年になると準備でも億劫になることも多いが、そこを我慢して一人で行くべきだ、という。いただいた本には近藤さんの直筆で「向上心と好奇心」と書いてあった。

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2008.12.06 Saturday
今回のウズベキスタンへの旅で良かったことは、現地の人と交流ができたことである。普通の観光旅行ではできないことである。日本ウズベキスタン協会の10周年の記念の旅だからである。9月22日にサマルカンドで学生と交流会をした。サマルカンド大学に行った。この大学では9月に初めて日本語学科ができた。それまではアラビア語、ペルシャ語、日本語、韓国語、トルコ語を第二外国語の選択科目で教えていた。日本大使館などの応援もあって、独立した学科ができた。最初にこの日本語学科の責任者の人が挨拶をした。
 「現在、日本語を学んでいる学生は10人以上いる。筑波大学など日本の3大学と協定を結んで先生に来てもらっている。日本人は熱心な民族であり、これからも日本語を学ぶ学生は増えると思います」と述べた。
 その後、現地の楽器である72弦のチャンゲなどラップ人の楽器で現地の唄を歌い、踊ってくれた。日本側は松原真夫団長が挨拶をしたあと、日本人が壇上に上り「上を向いて歩こう」(すき焼きソング)「ふるさと」「幸せなら手をたたこう」などの唄を披露した。
 学生は私たちの席に来て手帳を出して「住所と名前とメールの番号を書いてください」と言う。男の学生は「シュヒラット」と私の手帳に書いてくれた。観光学科の別な学生は「シャロファット」と書いてくれた。
 日本に対する関心の高さを感じた。
 タシケントに着いた23日は日本人が作った「ナボイ劇場」に現地の人たちを呼んで日本ウズベキスタン協会設立10周年の記念の交流パーティーを行った。嶌信彦会長が司会をして最初に日本の初代大使であったサイコフ大使が「日本への思い出はたくさんあります。ここに来られている人も顔なじみの人がいます.良く来られました」と挨拶した。サイコフ大使は現在、ウズベキスタンの外務省に勤務している。
 続いて平岡日本大使が「日本とはシルクロードを通して文物が結びついた。正倉院の宝物殿にあるものもシルクロードを通して行った。日本とウズベキスタンとは良好な関係であり、2年前に小泉首相、昨年は額賀・財務大臣が来ました」と日本との関係を述べた。今回の旅で同行した82歳の大塚武さんは「60年前にこの劇場の建設にかかわった。懐かしいです」と述べた。
 この地には戦後の抑留者の中で79人が死に日本人墓地に葬られている。われわれは墓の前で冥福を祈った。
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2008.11.10 Monday
 ウズベキスタンで最初に泊まったのはイチャン・カラ遺跡のあるヒワの街である。どんなホテルかと心配したが、新しく改造した木造の「マリカ・ホレズム」である。木の香りが漂うようなしゃれたホテルであった。昼にチェックインして、飛行機からの疲れを癒そうとシャワーを浴びた。お湯も出て良い施設だと思った。ところが、夜になってもう一度シャワーを浴びようとしたところ、お湯は出ずに水しか出なかった。みんなが使っているので「仕方ないのか」とあきらめて水を浴びて寝た。いらない書類を捨てようと思ってゴミ箱を探したところ、部屋には無い。シャワー室にゴミ箱があるだけである。
 海外旅行には日本茶と梅干を持ってゆく。ところがお湯のポットが無い。そのためにフロントに行って朝、お湯を持ってきてもらうことにした。朝、お湯を持ってきてくれたので梅干は食べられた。
 停電が2回ほどあった。日本ではないことだがウズベキスタンでは珍しいことではないらしい。しばらくすると回復した。夜、食事の時に停電がありみんなで「どうしたの?」と顔を見合わせた。ガイドさんによるとこうした停電はよくある、とのことである。
 翌日はヒワからバスでブハラに向かった。ブハラにはアルク(内城)、ボロ・ハウズモスク(礼拝場)、カリヤン・ミナレット(塔)、ナディール・ディバンベキのメドレッセ(神学校)の観光施設がある。バスはアム・ダリア川を渡り、ギジル・クム砂漠を走る。行けども行けども砂の世界である。そうした砂の中に電柱が立って送電しているのを見た。道は整備されていないので中国製のバスは大揺れである。後ろに乗っていた人は気分が悪くなった人も出た。
 ウズベキスタンの宗教はイスラム教スンニー派である。この時期はラマダン(断食)の時期だったので、学生との交流会では水も飲まない生徒もいた。
 ブハラのホテルは「セグルム」で街のはずれにありホテルという感じではなく木賃宿である。古いホテルを改造した、という。ホテルで風呂に入りお湯を出したところ、赤い水が出てきた。温泉に入った気分で入ったが、湯船の側には砂がたまっていた。お湯まで砂入りであり、「砂漠の国」と思った。
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2008.10.20 Monday
 ウズベキスタンは中央アジア5カ国の一つである。中央アジアはロシア、中国、インド、トルコに囲まれた軍事的にも政治的にも重要な地点である。大蔵省のOBで財務官の後、アジア開発銀行総裁を務めた千野忠男さん(08年7月17日に死去)は中央アジアの重要性に注目していた。千野さんはアジア開銀の創設などをしているうちにウズベキスタンに親しみを感じていたようである。財務官室にウズベキスタンから持ち帰った白い綿の実を花瓶に入れて飾っていた。
 中央アジアの5カ国について、ある勉強会の長老が「阿部さん、中央アジアについては『加藤たき』と覚えると良いですよ」と教えてくれた。加藤たきさんは政治家の娘であり有名な評論家である。カはカザフスタン(人口1500万人)トはトゥルクメニスタン(同490万人)ウはウズベキスタン(同2600万人)タはタジキスタン(同690万人)キルギス(同530万人)である。人口から見てもウズベキスタンが中央アジアの中心国であるのは間違いないであろう。
 ウズベキスタンの最大の産業は綿花の栽培と綿の生産である。ソ連の時代に小麦栽培は中止させられて綿花の栽培を強制された。9月と5月は綿花の収穫時期であり、畑に出て収穫していた。白い綿のみを手で取ってかごに入れる。大学はこの収穫期には授業をやめてこの収穫を手伝う。1キロで65スム(日本円で0・65円)の金が入ると、いう。
 ウズベキスタンには鉱物資源がたくさんある。原油と天然ガスは採掘している。どのくらい出ているかはわからなかったが、これから本格的に開発するようである。帰国してから東芝がウラン鉱石の開発で協定を結んだ、というニュースが出ていた。中央アジアにはこうした資源がたくさんあることが予測されているが、ソ連から独立して17年ということもあり、これからこうした仕事に取り掛かるのだろう。
 ウズベキスタンの大使には拉致問題担当相の中山恭子さんが勤めており、日本ウズベキスタン協会の集まりにはこまめに顔を見せる。中山さんの後の大使であった河東哲夫・早稲田大学大学院客員教授は「まだソ連の統治下にいたような仕事ぶりが見られる。あらゆる面でインフラの整備ができていない。これからの国です」は話している。
 
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2008.10.12 Sunday
中央アジアのウズベキスタンについて知っている人は少ない。私が教えている聖徳大学短大の2年生に聞いても知っている生徒は誰もいなかった。勿論、行ったことなどは無い。このウズベキスタンに9月14日から24日まで約1週間旅をしてきた。その報告を4回に亘り話していきたい。
 私がウズベキスタンとの付き合いを始めたのは朝日新聞の先輩の野田皓一さんから「日本ウズベキスタン協会」の会員にならないか、と勧められたことからである。野田さんは戦争中にソ連(現ロシア)に抑留されて、ウズベキスタンに行かされ強制労働をさせられた。そこでナボイ劇場などを建設した。そのナボイ劇場はその後の地震でも壊れずに日本の技術の声価が高まった。
 この協会に日比谷高校の同級生である嶌信彦君も入会していた。嶌君は取材でウズベキスタンに行って気に入ったので、野田さんなどと会を作った。野田さんは初代の会長だったが高齢ということもあり、嶌君に会長を譲った。この協会も今年で結成10周年になるので、ウズベキスタンに行こうという企画ができた。たまたま住友銀行の出身の塚谷さんがJICA(国際協力事業団)からウズベキスタンに経理などの指導で行っており、塚谷さんに会うということも一つの狙いで行くことになった。塚谷さんの大学時代の友達の蕪木寿君も行くことになり、さらに中学校の友人の関光雄君を誘ったらOKになった。このほか日比谷時代の西川寿子さん、朝日新聞で同期の村田歓吾君など知っている人がたくさんいる旅になった。今回の旅行はウズベキスタンコースとキルギスコースに分かれた。私たちはウズベキスタンコースで嶌君や西川さんらはキルギスコースだった。
 17日午後6時30分に成田空港に集合してウズベキスタン航空で関空経由でウズベキスタンの首都タシケントに向かった。関空では乗り継ぎだけなのに1時間も待たされて、空腹だっただけにいらいらした。
 飛行時間は8時間で時差が4時間である。関空を23時45分に出て、タシケントには18日の朝の4時25分に着いた。時差の関係で儲かった気分である。乗り継いでウルゲンチ空港に行き、その日はイチャン・カラの遺跡のあるヒワを観光した。
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