2016.11.10 Thursday


住友銀行秘史に登場する人たち
「住友銀行秘史」(講談社、初版16年9月)という本が出版されて金融業界では話題になっている。著者は住友銀行の取締役をした国重敦史氏(現在ミックスポイント会長兼社長)である。住友銀行で安宅産業の崩壊とともに大きな問題になったイトマン事件についての当時の動きをメモに基づいて書いている。当時、国重氏は大蔵省や日銀などの窓口としていろいろな情報を集めていた。そうした中でイトマンがやくざまがいの男たちにいいようにされて金が出てゆくことに危機感を感じた国重氏が何とかしなくてはいけないというので内部告発の文章を伊藤萬従業員一同ということで土田正顕銀行局長に送っていた。それとともに日銀やマスコミにも手をまわしている様子がすべて実名で出てくる。日銀では当時の考査局の溝田泰夫・管理課長と相談している。マスコミでは日経新聞の大塚將司記者と情報を提供するとともに、イトマンの記事を紙面にする様子が書かれている。読売は山口記者の名前が出てくる。
一方、住友銀行の中では磯田一郎会長と西貞三郎副頭取、河村良彦イトマン社長が伊藤寿永光、許永中と組んで金をふんだんに取られてゆく。このことに危機感を持った国重氏が「このままでは住友銀行はつぶれてしまう」と玉井英二副頭取、松下武義常務、西川善文常務などと組んで磯田会長を何とかやめさせようという動きが実名で出てくる。
最終的にはコーリン産業のトップの小谷光浩に当時の青葉台支店長が迂回融資をして逮捕されたことで、磯田会長は責任を取って辞任し、イトマン問題も河村社長の辞任などで収束してゆく。
国重氏は「メモを取っていたことから、講談社の編集者が25年たったので本にしたらどうだ、と勧められて書いた。迷惑している人もいるだろうが許してほしい」とあとがきに書いている。

 

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2016.09.19 Monday


サウジアラビアのアルシャスリ博士が講演

外国人記者クラブでサウジアラビアのサード・ビン・ナーセル・アルシャスリ博士が8月18日に講演した。博士はサウジの上級宗教学者会議メンバーであり王室顧問になっている。ISISについて詳しいということからISISについての質問があったが、アラビア語から英語への通訳が良くなく、博士の真意は伝わらなかった、と記者の感想である。

 

| 本・その他 | 08:32 | - | - | pookmark |
2011.08.29 Monday

「震災復興―どうなるこの地域、あの企業」(洋泉社MOOKより 
 

 住宅

 地震や津波にあったときには最初に必要なものは住宅である。住宅生産団体連合会(会長・樋口武男大和ハウス工業会長)にも国土交通省から応急仮設住宅の建設要請を受けた。このために住団連では緊急対策本部を作った。本部長には樋口会長がついた。応急仮設住宅はプレハブ建築協会、被災住宅修繕等支援は住団連が事務局になった。応急仮設住宅は3月14日には2ヶ月で3万戸の供給が可能になるように、という国交省からの要請であった。

 その後、この件数は6万2千戸に増えた。岩手、宮城、福島県での必要戸数を積み上げると7万2千戸となり1万戸増える。樋口会長は「国交省からの要請はあくまでも6万2千戸であり我々としては、この完成を目指す。こうした住宅ではいかに損を出さないようにするかです。応急住宅は価格が抑えられていますからね」と話している。

 住団連によると災害救助法により1戸は238万7千円になる。2LDKにキッチン、バス、トイレを備えるのでこの価格におさめるのは各社とも厳しい。大和ハウス、積水ハウスが2千戸、積水化学が1千戸、トヨタホーム800戸などとなっている。

 住宅業界の幹部によると東日本大震災と阪神淡路大震災と性格が違うという。阪神淡路の応急住宅は4万8千戸だったが、今回は倍近くの戸数になっている。その上に阪神淡路の時には都市部の建物が壊れたので復旧も難しくなかったが、今回は岩手から福島まで範囲が広い。経済的にも阪神に比べると支払い能力が低い事から、どの程度の需要が出てくるのか、分からないと話している。

 住団連の矢部広報部長は「住宅業界は特需が起きて良いですね、という人がいるが特需などとんでもない。部材が値上がりしたり、注文された納期が今回の大震災で遅れるなどして、やりくりが大変なんです」と話している。仕事が増えたのは間違いないだろうが、特需までは行かないようだ。 

 土木・建設・道路業界

 

 民主党政権になってから公共事業費は毎年減らされてきた。10年度の建設工事受注は前年度に比べて0・1%減の41兆7千億円と過去最低になった。このうち公共機関からの受注は9・9%減の9兆円と過去最低だった。こうした中でも東北地方は36・1%減になり他の地域に比べて落ち込みが大きい。民間の受注額が岩手、宮城、福島が50%以上落ち込んでいるために今回の地震による復興需要に期待するところは多い。ある大手ゼネコンの幹部は「地元を優先するでしょうが大手の技術が必要になるのは間違いないでしょう。特需になれば良いのですが」と話している。 

 土木・建設 

 11年4月に新しくなった日本建設業連合会(会長・野村哲也清水建設会長)は合併に先立って「新日建連緊急災害対策本部」を設置した。さらに土木本部(旧日本土木工業協会)の東北支部(支部長・赤沼聖吾鹿島建設専務東北支店長)は地震発生と同時に「震災対策本部」(本部長・赤沼支部長)を作った。この本部では国土交通省と東北6県・仙台市と締結している「災害時における応急対策業務に関する協定」に基づき資機材の調達や復旧支援に対する貢献をする。対策本部は幹事会社8社(鹿島、大成、ハザマ、鉄建、西松建設、前田建設、清水建設、大林)で構成しており各社から人が出て常駐している。資機材の調達は当番会社が責任を持って用意するが不足する場合は支部の63社の協力を求めている。対策本部ではガソリンや軽油の確保に苦労したという。瓦礫の撤去などで各県と協力してゆく。

 

 建設特需は3年間で11兆円から17兆円 

 総合人材サービスを提供するインテリジェンス(本社・東京都千代田区、高橋広敏社長)グループの「インテリジェンスHTO総合研究所」の今回の東日本大地震の雇用への影響について発表した。建設業には3年間で11兆円から17兆円の特需が生まれ、労働力としては建設業だけで97万3千人から152万人必要になる。この試算は産業関連表などをもとにしたもので被害額を16兆円から25兆円という政府の試算をもとにはじいた。同研究所によると「被災地の就業者は84万人おり、充分に雇用を吸収できる。しかし、建設業は人あまりであり、必要な人材の測量士、土木施行管理士、とび工、大工、左官などの経験や技術を持った人材が必要でミスマッチが起きて、建設業だけで雇用を吸収するのは難しい」と解説している。 

 原発の処理で鹿島と大成、清水が協力 

 今回の地震で原発からの放射線が出ていることが復旧工事を妨げている。この福島第一原発は鹿島が工事をした。このために鹿島は地震の後でも引き続いて後始末をしているが放射線の問題があり、1社では人員が間に合わない。そこで大成、清水に協力を求めて放射線の汚染した瓦礫処理は作業員の被爆を防ぐために遠隔で操作する重機で行った。作業員は現場から数百メートル離れた操作室で画面を見ながら油圧ショベルやダンプカー、ブルドーザーなどの重機を動かして瓦礫をコンテナに入れ原発敷地内の1箇所に集める。こうした3社の協力によるものは珍しい。 

 道路や河川や港湾の復旧工事 

 建設業団体と国交省の災害協定に基づいての活動が始まって成果を出している。東北建設業協会連合会は協定に基づいて道路の復旧に110チーム850人、機械を384台出した。一方、河川には6チーム89人、機械を52台出した。日建連の土木部は協定に基づいて仮設ハウス2300棟、仮設トイレを1500個を確保して被災地に出している。

 日本埋立浚渫協会でも国交省からの要請で12船団を9港に出した。船の種類は多目的起重機船や浚渫船、油回収船、パージ船(貨物を積んで航行する平底の船)など。各建設業団体は国交省と連絡しながら被災地の復旧工事に当っている。

| 本・その他 | 04:22 | - | - | pookmark |
2009.04.06 Monday
産経新聞社で経済記者をしていた砂原和雄さんが、11月25日にプレスセンターの10階のレストラン「アラスカ」で「炎の森へ」という小説の出版記念パーティーを開いた。このパーティーを開く前に、プレスセンターの私の事務所にきて、会場として「アラスカ」はどうか、という相談があった。100人前後だったら良いのではないか、と勧めた。

 砂原さんとは、日銀の記者クラブでは一緒ではなかったが、建設・不動産で付き合いが始まった。当時はバブルの時代の始まりであり、内幸町のNHK跡地が、坪1千万円で三菱地所が買って評判を落とした。菅原さんはその取材をして、不動産業界では名前を挙げていた。その後で不動産業界の広報部の人たちとマスコミがゴルフを年2回する会に出てきてよくあった。ゴルフはそれほど熱心ではなかったが、酒は仲間と飲んでいた。

 砂原さんは日銀の時代に三重野康・総務部長と親しくなり、三重野さんを囲む会を主宰していた。朝日新聞社からは私に声が掛かり、出ていた。夫婦ずれの時もあり、女房は今でもその会のことを覚えている。三重野さんはそのあとに日銀総裁になり、お祝いの会も都内のホテルでした。

 この日の会は三重野さんが中心になり日銀関係者と不動産・建設業界のおえら方が呼びかけ人になった。その中には三菱地所の高木丈太郎・相談役や今村治輔・清水建設相談役などの懐かしい人がいた。

 最初に三重野さんが挨拶して「菅原さんが来て本を出すという報告があった。今までの経済の難しい本でなく柔らかい本だという。それでは仲間内でお祝いをしようと話したところ、こんな盛大な会になった。この本は私はすでに読んだが爽やかで後味が良いです」と話し、乾杯をした。司会は日OBの松嶋さんが行った。

 本の内容は破たんした日本長期信用銀行のエリート行員が、陶芸家になる、という筋である。長銀のOBも佐藤孝靖・元常務などが来た。佐藤さんとはよく会合で会うので「この本はどうですか。良い出来ですか?」と聞いた。「モデルを知っていますが上手に書いてありますね」とほめていた。70歳に近い砂原さんがこれからこうした小説を書いてゆくのは楽しみである。
| 本・その他 | 08:39 | comments(0) | - | pookmark |
2008.12.26 Friday
 産経新聞社で経済記者をしていた砂原和雄さんが、11月25日にプレスセンターの10階のレストラン「アラスカ」で「炎の森へ」という小説の出版記念パーティーを開いた。このパーティーを開く前に、プレスセンターの私の事務所にきて、会場として「アラスカ」はどうか、という相談があった。100人前後だったら良いのではないか、と勧めた。
 砂原さんとは、日銀の記者クラブでは一緒ではなかったが、建設・不動産で付き合いが始まった。当時はバブルの時代の始まりであり、内幸町のNHK跡地が、坪1千万円で三菱地所が買って評判を落とした。砂原さんはその取材をして、不動産業界では名前を挙げていた。その後で不動産業界の広報部の人たちとマスコミがゴルフを年2回する会に出てきてよくあった。ゴルフはそれほど熱心ではなかったが、酒は仲間と飲んでいた。
 砂原さんは日銀の時代に三重野康・総務部長と親しくなり、三重野さんを囲む会を主宰していた。朝日新聞社からは私に声が掛かり、出ていた。夫婦ずれの時もあり、女房は今でもその会のことを覚えている。三重野さんはそのあとに日銀総裁になり、お祝いの会も都内のホテルでした。
 この日の会は三重野さんが中心になり日銀関係者と不動産・建設業界のおえら方が呼びかけ人になった。その中には三菱地所の高木丈太郎・相談役や今村治輔・清水建設相談役などの懐かしい人がいた。
 最初に三重野さんが挨拶して「砂原さんが来て本を出すという報告があった。今までの経済の難しい本でなく柔らかい本だという。それでは仲間内でお祝いをしようと話したところ、こんな盛大な会になった。この本は私はすでに読んだが爽やかで後味が良いです」と話し、乾杯をした。司会は日OBの松嶋さんが行った。
 本の内容は破たんした日本長期信用銀行のエリート行員が、陶芸家になる、という筋である。長銀のOBも佐藤孝靖・元常務などが来た。佐藤さんとはよく会合で会うので「この本はどうですか。良い出来ですか?」と聞いた。「モデルを知っていますが上手に書いてありますね」とほめていた。70歳に近い砂原さんがこれからこうした小説を書いてゆくのは楽しみである。

| 本・その他 | 15:11 | comments(0) | - | pookmark |
2008.10.09 Thursday
朝日新聞社で社長を7年間務めた中江利忠さんが、9月9日から14日まで有楽町のマリオンのそばの「朝日アートギャラリー」で「一記者のカメラ回想―中江利忠展」を開いた。中江さんは経済部の先輩でもあり、敬愛する人である。社長を務めた人にありがちな傲慢なところは無い。私が記者時代はデスクであり、原稿を見てくれた。適切な朱の入れ方であった。筆頭デスクで人望もあった。
 名古屋本社と東京本社で経済部長を務めたあと、東京の編集局長をやり常務で総務・労務担当、編集担当の後、専務で国際担当をして89年6月に社長になった。その忙しい中でカメラはいつも持っていて写真を撮っていた。
 今回の写真展には65点の作品が飾られていた。「学業・記者時代」「海外の旅」「国内・家族」と分かれていた。「国内・家族」の写真の中には新潟県・長岡での花火の写真もあった。私も今年の8月に行ったので懐かしかった。「一高最後の日」という門札を外す麻生校長と安倍前校長の写真は珍しい。
 初日の9日午後3時過ぎに行った。会場には経済部の先輩の沼口好雄さんや戸引和夫さんなどが写真を見ていた。
 中江さんは05年6月に顧問から社友になったときに「75Declics カメラで綴る回想」という85ページの本を配った。その本の巻頭に「学業生活18年、朝日新聞社の生活52年3カ月を振り返って75歳余のわが身を静かに振り返ってみる。私の年齢と同じ75点の写真を原則として1ページ1点の形で掲載する」と書かれている。
 中江さんは「長い間公私ともお世話になり感謝に堪えません。ささやかなお礼のしるしに、小冊子をお届けしますので、ご照覧ください」という紙が着いていた。。
 この本では「学生時代」「地方支局時代」「経済部時代」「マネジメントの合間に」という構成になっている。経済部の時代の写真はソ連取材、都市問題取材、中国取材などがある。この本の写真と今回の写真展はダブっているものも多いが、78歳の中江さんがこうした写真展をするのは素晴らしいことである。
 Declicsというのはフランス語でカメラのシャッターという意味である。中江さんの学識に遠く及ばないことを感じる。
| 本・その他 | 11:44 | comments(1) | - | pookmark |
2008.08.15 Friday
 桐山勝さんは日経新聞の記者で政治部や産業部などで活躍して、ロサンゼルス支局長になった。ここでの活躍はトヨタ自動車のGMとの合弁会社設立のニュースをいち早く掴み東京に連絡したりした。その後、テレビ大阪の取締役報道局長などをした後、日経CNBCの社長を務めて監査役になった。その監査役も終わり今では大学で講義しているほか、いろいろなことをしている。顔の広い桐山氏なので仕事を頼まれることが、多いと言う。NPO法人「江戸しぐさ」の副理事長をしている。理事長は「江戸しぐさ」についての研究家で「江戸の繁盛しぐさ」(日経新聞社発行)などの著書がある越川禮子さん(82)である。
 ある時、桐山氏から電話があり「7月10日にプレスセンター9階で記者会見するから来ませんか。越川理事長も来るので紹介しますよ」という。午後3時に行ったところ「平成しぐさ」「ふるさとしぐさ」の募集についての記者会見であった。江戸しぐさと言うのは18世紀の江戸は100万都市で、そこで生活する商人が武士などと余計な争いをしないで平和に暮らすための行動様式である。別な言葉では「商人しぐさ」「繁盛しぐさ」とも言われている。
 桐山氏によると雨の時に道で傘を差している時に傘を傾ける「傘かしげ」というのや「肩引き」「かに歩き」などがある。こうした江戸時代に発達した江戸しぐさを現代の平成の世にどのように応用しているか、を募集するものである。作品は小学生、中学生、高校生、大学生、社会人の5部門で、人間関係を円滑にする考え方や行動様式について原稿用紙400字詰め1枚に書いて送る。この原稿の中に10字以内の「しぐさ言葉」を使うのが条件である。募集期間9月12日まで。送り先は〒150−0021の渋谷区恵比寿西2−2−10−301のNOPO法人「江戸しぐさ事務局」である。
 越川理事長にお会いしたが、江戸しぐさについては「言葉はことだまであり、人に対しては思いやることが基本です。具体的な行動は約束を守る、見ればわかることはいわない、年齢や学歴などで無くその人のしぐさで判断する、違うことは尊重すること、などです。江戸しぐさを普及させればもっと世の中がよくなりますよ」と話していた。とても元気で80歳を超えているとは思えなかった。
| 本・その他 | 08:24 | comments(0) | - | pookmark |
2008.04.04 Friday
建築家の今里隆さん(80)が60年間の作品を写真にして「日本、そしてその美しさ」というテーマで4月21日から30日まで銀座8丁目の吉井画廊で開く。今里さんは東京美術学校(現東京藝術大学)の建築科を出て、吉田五十八教授について建築を学んだ。歌舞伎座や国技館など300の作品のうち40点を出品する。会場では作家の永井路子さんの「日本美へのまなざし」という巻頭言の在る「建築家今里隆の軌跡」という60ページの冊子を配る。
| 本・その他 | 09:37 | comments(0) | - | pookmark |
2007.05.28 Monday
日本記者クラブでは映写会をしている。平日のときもあれば土曜日のこともある。時間が合う限り出るようにしている。5月19日(土曜日)に新藤兼人さんが原作・脚本・証言という映画「陸に上がった軍艦」(山本保博監督)をやった。このところ土曜日はゴルフのことが多いのだが、この日は空いていたので女房と行った。この映画は新藤さんが33歳で徴兵で海軍に行くったことの経験と敗戦になった前後のことが描かれている。海軍に入っていかに軍人が作られていくか。根性棒というもので殴られて軍人が出来ていくというおかしなことを、訴えている。一緒に入った兵隊はそれぞれが妻と子供を持っていて、休みの時には呼び寄せてわずかの逢瀬を楽しんでいた。そうした時に公園で親子が食事をしている時に上官に挨拶しなかったことで公衆、特に妻と子の面前で殴る蹴るの暴行を働く海軍の軍人。また、鉄兜が3個なくなった容疑で拷問を受けて軍法会議にかけられて無罪で出てきたが腑抜けのようになってしまった男。最後は板の戦車で訓練する海軍の状況までが描かれて、終戦になる。95歳になる新藤さんがこうした場面ごとに思い出を話す。戦争、特に海軍がいかにくだらないことをしていたか、が分かった。
 この日の日経の朝刊で「おつな寿司セミナー」で一緒の浦田憲治・日経編集委員が文化面で「城山三郎さんの遺稿から」ということで戦争体験を克明に書いていることが出ていた。城山さんは07年3月から「私の履歴者」を書くことになっていた。ところが病気で3月22日に死去したために完成しなかった。しかし、2月15日に娘さんの井上紀子さんからは15回分70枚の原稿が送られてきた。それによると「七つボタンの帝国海軍は堕落しきっていた。早朝から夜更けまで、バッターという棍棒を振り回す下士官たちや士官。それも罰するというのでは無く、ただ狂ったようにブカを殴りつけるだけ」という。城山さんは純粋な愛国心から敗戦の3カ月前に17歳で海軍特別幹部練習生として志願入隊した。徴兵で海軍に行った新藤さんとは違っているが、ひどい状態を体験したことでは同じである。
 月刊誌「BOSS」に頼まれて城山さんの作品である五島昇をモデルにした「ビックボーイの生涯 五島昇の生涯」を書いた。城山さんから財界活動の取材を受けただけに懐かしい本である。5月21日に都内のホテルでお別れ会が開かれ献花してきた。750人が参列した。
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2007.05.07 Monday
 荒木和男弁護士は九段中学校の同窓生である。中学二年の時に新潟県十日町から転校してきた。体の大きい男だなあという印象しかなかった。荒木君は小山台高校に進み、1年浪人して東大法学部に進んで、弁護士になった。東大時代に釣りの好きだった丹羽君(現在クラボウ会長)と一緒に釣りに行ったりしていた。この荒木君とは千代田区三番町で洋服屋をしている関光男君のところで集まって、食事や飲んだりして付き合うようになった。私の妻の実家で仕事の関係で問題が出た時に相談したりして、助けてくれた。料金なども良心的にしてくれいろいろな問題を持ち込んで解決してもらった。
この荒木君が、心臓が悪くなって入院して酒が飲めなくなってしまった。それまでは酒は日本酒が好きで新潟の八海山などを浴びるように飲んでいた。荒木君と1月20日に安田火災海上(現ジャパン損保)の宮武康夫・元社長のお別れ会で会った。宮武さんの娘婿が裁判官で、荒木君と司法修習生の同期だった、ということは聞いていた。酒を飲まなくなったのでやせていたが元気そうであった。ところが奥さんの恵美子さんが最後の挨拶をしているときに倒れてしまった。そばにいた私が支えてすぐにホテルの人に来てもらい、しばらく休んで元気になった。
この荒木君から「出版記念会をするので発起人になって欲しい」と頼んできた。丁度、宮城県知事であった浅野氏の「許される嘘、許されない嘘」の出版記念会をしようという時だった。発起人になることを引き受けた。   

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