2021.01.13 Wednesday

渡文明さん(わたり・ふみあき)20年12月24日急性心不全のために死去。享年84歳。

 

渡さんはキャノンの御手洗・経団連会長と親しく、ゴルフは安倍総理と一緒にプレーして、安倍総理から「御手洗さんや渡さんは歳に似合わずに飛ばすのでびっくりすることが多かった」と経団連の年頭のあいさつで披露されていた。

御手洗さんより若いだけにその死を残念がる経済人は多い。

 

 

新妻義輔(にいずま・よしすけ)元朝日新聞常勤監査役。元朝日新聞大阪、東京本社編集局長 2月7日死去。享年78歳。

 

大阪社会部の記者として活躍した。

| 追悼録 | 14:14 | - | - | pookmark |
2021.01.13 Wednesday

2020年11月21日死去。享年92歳
新宿の名物校舎文化服装学園を率いて60年
新宿の南口にあるドーム型の校舎は長年、新宿を行きかう人たちの目を楽しませてきた。東京のファッションの発祥地である文化服装学園の殿堂としてコシノジュンコ、高田賢三、ヨウジ山本などを生み育ててきた。

この学園の理事長、校長などを長年務めてきた
大沼淳さん(おおぬま・すなお・92)が年末のあわただしい中を身内だけでひっそりとあの世に旅立った。戦後のがれきの中から日本のファッションを売り物にした学園を世界中に認めさせてきた。
自らは表に出ないようにして「学校経営にはスターはいらない」を職員に徹底させて経営を引き締めてきた。


役人から学校経営に転身
大沼さんは長野県の北部にある野沢市に生まれ、旧制飯山中(現県立飯山北高校)を卒業した後、海軍兵学校76期として入学した。2年間勉学に励んだ後、終戦になり「どうするか?」ということになり偶然、図書館に人事院の事務官の採用試験の応募があり、試験を受けることになった。

大沼さんは「今と違って軍関係の学校に行っていたものには狭き門だった」という。9人兄弟という中で、生活も苦しく、何はともあれ試験を受けてみようということになった。

外地から引き上げてきた年配の人や学校を出たばかりの秀才などはおり、「合格はとても無理だ」と思っていた。そうした狭き門だったが行政職と専門職の二つの事務官に合格した。


赤城・元農相にかわいがられる
人事院の事務官として働き始めた。
日光市にある田母沢の御用邸に臨時に開設された研修所に集合することになった。200人前後の職員が集まり1班20人前後で12班で研修した。東大、東工大などの官学だけではなく早稲田、慶応など、私学組まで様々だった。そうした中で3か月の研修を終
えて東京・霞が関の人事院に勤務することになった。
母や兄が教師だったこともあって偶然だが、戦後の教員の人事制度を再構築する責任者になった。
人事院の担当者として日教組、文部省、国会と3社と連携しつつ、新制度をまとめ上げて現在の教員、人事制度を確立した。
こうした交渉の中で国会で文教委員をしていた自民党の川島正次郎氏、赤城宗徳氏、坂田道太氏、竹尾弐氏などと親しくなった。野党では日教組出身の岡三郎、太原亨、宮之原貞光、辻原弘市などとも親しくなり、国立大学協会会長の時にはこの人脈が役立った。
赤城宗徳議員には人事院事務官の時に2回り歳(辰年、24歳)の上の赤城氏が学校の看護師の年給がないことを問題として政府に運動した獲得した時からの縁である。その時に「風来花自笑」の書を送ってくれた。今でも大沼家の玄関の一番良いところに飾ってある。


赤城氏は「どんな逆境が来たとしてもそうしたことは長くはない。どんなに厳しい冬でも暖かい春は必ず来る」という意味をこの5文字に託している、という。
私的なことになるが、私が朝日新聞経済部で農林省を担当した時の大臣は赤城氏であった。歴代の大臣で赤城氏ほど評判の良い農林大臣はいなかった。
大沼さんが人事院に入院した後、どうなるか全くわからない時に何かと面倒を見てくれたのが赤城氏であった。赤城氏は茨城県選出の衆院議員だった。大沼さんは村風士然としてあちこちの流れにとらわれなかった。特に当時、教員の年金問題が宙に浮いていると
きに赤城氏に相談して、文部省や大蔵省と折衝した。応援団としていわゆる文教族の坂田
氏や宮之原氏などがついてくれた。


遠藤氏から文化学園を任される
文化服装学園は並木学園と呼ばれて、遠藤政次郎氏が経営していた。大沼さんは人事院に務めていた時から遠藤氏から「文化学園の経営を任せたい」という要請が再三にわたりあった。並木学園の理事会などには遠藤氏の要望もあって出席して必要なアドバイスなどを出していた。
杉並学園も51年に復興を成し遂げ53年には第二校舎も完成し55年には新宿の名物校舎である円形の本校舎の建設に入り、戦前に倍する服装教育の殿堂作りが始まった。56年は復興10周年の記念の年になった。
遠藤氏は東京にいると組合との交渉などあり体に良くないと12月には伊東に戻った。4日に遠藤氏から大沼さんは伊東に呼び出されて杉並学園の後事を託された。ぽつぽつと語り訴える遠藤氏の言葉に「私の決意は決まった」と大沼さんは話した。大沼さんは「
右せんか、左せんか場面に直面して、遠藤さんの人間的な叫びを私として、住み慣れた官界を去らしめた」


遠藤さんの叫び声に官界を去る
大沼さんは「何も知らない、何も知らないただなんとか信頼に報いなければならないという、決意を頼りに学院に身を置いた」58年の暮れも59年暮れも60年も6月には同じ状態だった。
夏季手当をめぐり労働争議の発生状態が出てきたが、遠藤氏は8月22日から4日間意識を回復することもなく午後8時に20人が見守る中で死去した。9月8日に新宿の校舎に帰った。
この4日間、大沼さんは着替えることもままならずに汗でベタベタの服のまま遠藤さんを東京に見送った。

| 追悼録 | 14:13 | - | - | pookmark |
2020.12.04 Friday

金岡君 どうして早く死んだの?


金岡隆さんが10月31日の夕刻に死去した。11月1日の午前中に昔、新橋で「庵」という飲み屋をしていた長越容子さんから「金岡さんが昨日死んだ。残念ね」という電話が来た。

私より2歳年下の76歳である。コロナのために葬儀は身内だけで4日に行った。

 

長女の智香子さんによると棺には楽譜やネクタイ、早稲田大学グリークラブの楽しい思い出の詰まった品を納め応援歌の「紺碧の空」を流して送り出した。

 

胃の全摘手術をして2年の予告金岡君は2年前に検査で胃がんが見つかり全摘手術をした。そのあとでもお酒は今まで通り飲み、早稲田大学のグリークラブの活動は続けてきた。我々の親しい連中の集まりの時には「放射線の手術で頭は丸坊主になっている。かつらをつけているのでわからないでしょうが」と話していた。

親しかった名井博明さんは「金岡さんからメールが来て歩くことができなくて車いすでないと外に出られない」という。

しばらく会っていない間に容態は悪くなっていた。長越さんからも「金岡さんが車いすでなくては出られなくて調子が悪いようよ」と話してくれた。

 

今年春に都内の世田谷で開かれた早稲田のグリーの演奏会に行ったら金岡君は出ていたが特別に椅子に座っていた。体調が悪いのだなあ、と思った。
富山県の名門富山中部高校出身でゼネコンの佐藤工業の幹部で出世する
金岡さんが佐藤工業の広報部長、秘書室長の時代は担当していなかった。朝日新聞の財界担当の時にゼネコンもカバーしたのでそれで親しくなった。「庵」の店で日本工業新聞の井上晴夫君に紹介されたのがきっかけである。井上君はゼネコンに食い込んでおり、この店にいろいろな人を連れてきては紹介してくれた。

このお店で28年前の5月の気候の良いときに井上君が金岡君に「ママさんも一緒に9月の風の盆の時期に富山に行こうよ」
と提案した。酒を飲んでの話でもあり、実現するかどうかわからなかった。

 

ところがしばらくして金岡君が8月31日8:45 ANAで羽田発小松行きの切符を取ってくれた。帰りは9月2日19:50富山空港発羽田着である。さすがに秘書室長をしているので手際がいい。メンバーは庵のママさん、講談社の今鉾さん、田中さん、日本
工業の井上さん、金岡さんと私の6人である。

 

最初の見学地は石川県にある北陸電力の志賀原発である。富山駅前のホテルに泊まり、県内をくまなく回った。金岡さんの親しい人が多くいるので氷見の大西家や富山の菅原家のエンジュマートなども見学した。
9月1日に風の盆の見学だが、福島家の座敷おわらに案内された。座敷で踊るのだ。黒部の黒四の見学では一般の人が見られないところまで案内してくれた。さらに名門の金岡家の生家も母親を紹介していただいて話を聞いた。
この旅で富山についていろいろなことがわかり、そのあとで金岡君の紹介で「富山ファン倶楽部」に入り、前の知事の石井氏などとも知り合った。


「いおり」の文集にグリーをめぐる縁を書く
長越さんの「庵」が開店10周年の91年3月に「記念誌集」と題して「いおり」を出版した。閉店する25周年まで10号を出した。この「いおり」の7号(02年1月)で金岡君は「庵とグリーをめぐる縁」と題して次の文を書いている。
「18年前に初めて庵に連れてきてくれたのは日本工業新聞の井上晴夫さんであるが、その井上さんが同じ頃に朝日新聞の阿部和義さんを引き合わせてくれた。阿部さんは建設省記者クラブに所属していたが、私が広報を担当した時期には既にほかのクラブに移っており、財界担当の大物記者として勇名をはせていた。怖そうな顔に似合わずに、人情が厚く、心憎い気配りができる人である。私が社長秘書に移つた時、自前で一席設けてくれた上に、朝日の社旗を立てたハイヤーを用意して『これで帰ってください』といい、自分はどうするかといえば『電車で帰る』のだという。
阿部さんの意外な点がいろいろあるが、日比谷高校時代にラクビ―に青春を燃やしたことがある。しかも東京都代表で全国大会に出場している。私たちのグリーの学年指揮者は丸山君である。丸山君も日比谷高校時代にラクビ―をやっており、一緒に活動していた、という」
丸山君が金岡君と一緒にグリーをしていることから金岡君の応援に力が入った。金岡君とは銀座の料理屋の「あきしの」で年に2,3回飲む会がある。この会には佐藤工業が倒産した時の管財人だった梶谷剛弁護士や金岡君の友人の公認会計士、警察の幹部などが集まり、焼酎を飲んで息巻くのである。

金岡君は幹事役として酒の手配から勘定まで面倒を見てくれた。
湯島にフクロウを集めた「ふくろう亭」という店があり長越さんや名井さんなどと一緒に飲んだ。金岡君はフクロウを集めるのが趣味で海外に出かける時にはお土産にフクロウを頼まれた。家にもたくさんのフクロウがあった。
ゼネコンの広報OBとマスコミOBとで正月の1月と夏の7月に集まる「サロンド・ムッシュの会」でも始めて2年目から参加している。出席率は良く、このところ集まるとみんなに「体調がだんだん悪くなってきている」と話し放射線で頭が丸坊主だと嘆いていた。


書けばいくらでも材料があるが、本当に残念である。天国でグリーの歌を歌いフクロウ
と楽しんで遊んでください。さようなら。
(阿部和義)

| 追悼録 | 17:03 | - | - | pookmark |
2020.12.04 Friday

(追悼録)
福神邦雄。元アルフレッサホールディングス社長。10月15日急心心不全のために死去。享年76歳。
旧アズウェルと旧福神の経営統合によるアルフレッサホールディングス設立を主導し、医薬品卸でシェア最大手になった


李健煕(イ・ゴンヒ)サムソングループ会長 10月25日老衰のために死去。享年78歳。
三和シャッターで広報を務めていた宿谷さんは李と早稲田大学で一緒でよく李の話をしていた。一緒によく遊んだそうである。


土屋嶢(たかし)大垣共立銀行会長 11月4日急性呼吸不全のために死去した。享年74歳。

昨年まで26年間頭取を務め年中無休の店舗などを作った。新型コロナに感染して入院していた。


鹿島昭一・元鹿島社長 11月4日心不全のために死去。享年90歳。
鹿島家の御曹司として生まれ東京大学、ハーバード大学で建築を学び社長就任前は建築家としても活躍していた。夫人は輸入車のヤナセの娘で海外などにも一緒に行っていた。
昭一氏は奥さんの面倒は海外などでは部下に見させていた。部下は「わがままな夫人に手をやいていた」という声が多かった。


岡田祐介・東映グループ会長。11月18日急性大動脈解離で死去。享年71歳。
私の都立日比谷高校の後輩であり、朝日新聞の街風隆雄や日経の永野健二などと同期である。こうした仲間と付き合っていたようだ。私は祐介のオヤジの茂氏と良く付き合って、祐介のことを自慢していたことを思い出す。


大沼淳・前文化学園理事長 21日死去。享年92歳。

役人(人事院)から理事長になり59年もの間理事長を務めた。ファッション教育や私学の発展に尽力した。私立大学協
会の会長を務めた。高田賢三やコシノジュンコなどを育てた。

 

佐伯晋・朝日新聞元専務。11月24日老衰のために死去。享年89歳。

58年入社で編集担当の常務、専務を歴任した。上皇様の結婚に向けての動きを取材して、結婚前の上皇后美智子様や親族を単独取材した。

| 追悼録 | 16:59 | - | - | pookmark |
2020.10.30 Friday

高田賢三 ファッションデザイナー

10月4日新型コロナウイルスのためにパリ郊外の病院で死去。享年81歳。
新宿にある文化服装学院を卒業して1965年にパリに行きブティックを開き、高級既製服の草分けとして成功した。同じ文化服装学院での同窓生であるコシノジュンコとは親しかった。

 


森部一夫(もりべ・いつお)元ミツミ電機社長 9月25日急性胆嚢炎のために死去。享年88歳。
経済部に来て兜町を担当していた時にミツミ電機は仕手株として有名で話題になっていた。

 


井出孫六 作家 10月8日敗血症で死去。享年89歳。
東大を出て中央公論に入社した。独立して作家になって洋画家川上冬崖を主人公にした「アトラス伝説」で直木賞を受賞した。兄は三木内閣の官房長官だった一太郎、姉は評論家の丸岡秀子の秀才兄弟で長野県では有名だった。

 


林原健・元林原社長 10月13日急性心筋梗塞で死去。享年78歳。
1961年岡山市にあるバイオ関連企業の林原の社長に就任。天然の糖質のトレハロースの開発や抗がん剤インターフェロンの量産に成功し注目された。粉飾決算の発覚で2011年社長を辞任した。

 


稲葉清右衛門・ファナック創業者 10月2日老衰のために死去。享年95歳。
富士電機製造(現富士通)に入社して56年に国内の民間企業として初めて工作機械の頭脳として使われる数値制御(NC装置)の開発に成功した。72年に富士通ファナック(現ファナック)として独立して95年6月まで社長を務めた。同社の山梨工場は黄色の建物として有名だった。
私の九段中学の絵の大里光春先生が川崎市で稲葉氏の家の隣に住んでいて「夜中に庭で放尿する人が稲葉さんという豪快な人だ」と話していたことを覚えている。破天荒な人であった。


福神邦雄・元アルフレッサホールディングス社長 10月15日急性腎不全で死去。享年76歳。
旧アズウェルと旧福神の経営統合によりアルフレッサホールディングス設立に成功して医薬品卸では最大手になった。

| 追悼録 | 10:12 | - | - | pookmark |
2020.10.07 Wednesday

追悼録
神近義邦氏 長崎オランダ村、ハウステンボス創業者 9月5日歯肉がんで死去。享年78歳。

神近さんが長崎県旧西彼杵町の職員の時にオランダ村を開園した。私は朝日新聞時代に長崎にいたのでこの事業に関心を持ち神近氏にインタビューをした。自信満々で成功した。しかし、そのあとのハウステンボスではバブルがはじけたこともあり、失敗して00年に社長を辞任した。

 

塩飽二郎氏 元農林水産審議官 8月30日死去。享年87歳。
農林省では国際畑を歩んだ。私の高校の友人の大河原新太郎さんが塩飽さんと親しくして釣りの仲間であった。

葬儀はコロナの時代ということもあり30人ほどしか来なかった。

ジュネーブで同じ時期にいた大蔵省出身の大野功統(よしのり)元防衛庁長官、通産省出身の黒田真・元三菱商事副社長などが参列した。


西川善文・元三井住友銀行頭取、日本郵政初代社長。9月11日死去。享年82歳。
西川氏は磯田一郎・頭取や樋口広太郎・副頭取に重用されて安宅産業の処理などに携わった。磯田氏がイトマン事件で当時の河村良彦社長に引きずられて不良資産を作り始めたときに西川氏が磯田氏を引きずり下ろした。その辺のいきさつについては自ら書いた「ラストバンカー 西川善文回顧録」(講談社)に出ている。
しかし、西川氏は小泉内閣の時、竹中平蔵総務相の推薦で日本郵政の社長になったことで銀行からの信用も失った、民主党政権になり斎藤次郎氏に交代させられて、郵政の方からもやめさせられることになり、最後はみじめであった。

 

アルフォンス・デーケン氏 カソリック司祭、上智大学名誉教授
9月6日肺炎で死去。享年88歳。
死をタブー視する状況に対して「死への準備教育」を提唱して賛同した市民により「生と死を考える会」を作った。私も長男の裕太が突然死したことからこの会に誘われて参加して心の不安を鎮められた。


楠兼敬(くすのき・かねよし)元トヨタ自動車副社長、元日野自動車会長
9月16日腎不全のために死去。享年97歳。


村山利雄・元日立造船社長
9月24日急性肺炎のため死去。享年100歳。
永田敬生社長が日立造船の基盤を作ったが、そのあとを継いだ。


川村二郎・元週刊朝日編集長
9月29日肺がんのために死去。享年78歳。
川村氏は私の1年先輩で、最初の任地は大分支局だった。私は長崎支局だったので川村氏の話はいろいろ入ってきた。赤いフェアレディの車で取材先を回って派手なことが大分中で評判になった。そのあと出版に行き週刊朝日で活躍した。現在、月刊誌「リベラルタイム」で「川村二郎の日本人の矜持」を連載していた。11月号には「休載です。次号をお楽しみに」と書かれていた。

| 追悼録 | 16:00 | - | - | pookmark |
2020.08.31 Monday

日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)の幹事だった加藤憲一郎さんが死去。


住宅業界のご意見番
加藤憲一郎さんは20年2月26日に脳内出血で死去した。享年89歳。


加藤さんは住宅問題評論家として不動産業界や住宅業界で取材し意見を述べ見識を披露してきた。宮崎県出身で東京大学文学部を卒業した後、主婦の友社に入ったあと退職し、住宅新報社に入った。

出版局で「住宅画報」の編集長を務めた。その後、住宅問題の評論家として独立して活躍してきた。東急不動産の金指潔会長などとは親しく付き合ってきた。

金指会長が東急ホームの社長をした時からの関係であり、東急不動産のパーティーなどでは金指潔・会長が挨拶の時に「お忙しい中で長老の加藤さんまで来ていただきありがたいことです。

加藤さんも元気でこれからも活躍してくださいね」というほどであった。


REJAでは長い間、幹事を務めていただいた。長老としての今までの経験を若いジャーナリストや業界の人の参考にしたいと82歳の加藤さんに講演をしてもらおうと企画した。2013年9月にプレスセンターで「住宅産業の形成と発展」を第一回として14年3月の第四回の「これからの住宅産業の方向」までのテーマで話してもらった。

 

加藤さんも今まで書いた原稿や講演をまとめて要領よく話してくれた。加藤さんは「どれほど参考になったかわからないが、今までの勉強の成果を披露できたと思う」と話していた。
この講演の後、加藤さんはREJAの会合に出てこられなくなった。奥さんの洋子さんが8年前の12年4月に亡くなったこともあり心配していた。そうした中での突然の訃報にびっくりした。

ご冥福を祈ります。天国で洋子さんと仲良く楽しんでください。

| 追悼録 | 18:51 | - | - | pookmark |
2020.08.31 Monday

(追悼録)
須藤甚一郎・東京都・目黒区議・芸能リポーター
8月11日多臓器不全のため死去。享年81歳。
週刊誌のライターからテレビに進出して日本テレビ系の「ルックルックこんにちは」などで活躍して99年に目黒区議に当選して現在6期目。

 

金子尚志・元日本電気社長

8月8日老衰のために死去。享年86歳。
ワンマンの関本忠弘社長の後引き継ぎ4年半で西垣浩司氏にバトンタッチした。

 

砂原幸雄・元TBS会長

8月12日にがんのために死去。享年83歳。
TBSのプロデューサーがオウム真理教幹部に坂本堤弁護士の取材ビデオを見せた問題で引責辞任した磯崎洋三氏の後任の社長に就任した。

 

松井義雄・元読売新聞東京本社社長

8月13日肺炎のために死去。享年82歳。
経済部の記者として活躍した。

 

望月幸明・元山梨県知事

8月8日老衰のために死去。享年96歳。
1979年山梨県知事になり3期12年務めリニア新幹線の実験線の誘致に取り組んだ。

 

桂泰三・元シャープ副社長

8月8日副じん不全のために死去。享年90歳。
私が大阪経済部の時代に佐伯旭・社長の下で副社長を務めた。

 

斎藤盛也・三井不動産副社長

8月23日急性腎不全で死去。享年81歳。

 

渡哲也・映画俳優 8月10日死去。享年78歳。
NHKで渡哲也のしのぶドラマを30日午後4時過ぎにやった。渡が新聞記者から弁護士になって学校で校長を殺したという罪で逮捕された女性教諭を救う話には13年前のものだが涙が流れた。正義感あふれる弁護士役が似合っていた。

 

山崎正和・劇作家・文明評論家 8月19日悪性中皮腫のために死去。享年86歳。

サントリー文化財団などの芸術文化の振興に力を尽くした。

| 追悼録 | 18:46 | - | - | pookmark |
2020.08.01 Saturday

(追悼録)
吉富勝・元経済産業研究所所長 6月21日肺炎で死去。享年88歳。
東大経済学部を卒業して経済企画庁に入り調整局長を経て、アジア開発銀行研究所所長の後、04年から経済産業研究所の所長になった。明快な説明で経済記者の評判が良かった。


島野喜三・元シマノ社長 7月3日慢性心不全で死去。享年85歳。
シマノ創業者の3男として堺市で生まれ長兄、次兄の後、4代目の社長になった。シマノの国際化を進めて世界のシマノにした。

 

 

遠入昇・元鐘紡(現クラシエホールディングス副社長)虚血性心疾患で死去。享年98歳。
遠入さんがこの年まで生きているとは信じられなかった。我々が知っている遠入さんは東レにいてファッションを指揮していた。それを目につけた鐘紡の伊藤淳二社長がスカウトし当時は話題になった。


伊從寛(いより・ひろし)元公正取引委員会委員。 6月29日慢性腎不全のために死去。享年92歳。
経済で合併問題があると公取の見解を聞くために伊從さんに取材した。伊從さんは丁寧に答えてくれ、スポークスマンとしての役割を果たした。


上島重二・元三井物産社長 7月19日心不全のために死去。享年88歳。
日本経団連の副会長を務めていたが、ロシア領の国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札事件で三井物産の会長と日本経団連の副会長を辞任した。


三浦守・元東急百貨店社長 老衰で死去。享年96歳。
東急グループの総師であった五島昇に仕えた。ゴルフが好きな昇に付き合うためにパタークラブだけでショートホールを回ったという逸話が残っている。

| 追悼録 | 12:08 | - | - | pookmark |
2020.07.04 Saturday

追悼録
山本和彦・元森ビル副社長
6月1日すい臓がんのため死去。享年74歳。
山本さんは森ビルの森稔氏に仕え、広報の担当をしていた。日本不動産ジャーナリスト
会議で森ビルのことになると山本さんが窓口になり手配してくれた。温厚な人柄でたくさ
んの人に愛されていた。


山田隆哉・元ダイハツ工業社長、元ジェイテクト会長
6月2日筋萎縮性側索硬化症(ALS)で死去。享年78歳。
トヨタ自動車取締役を経てダイハツ工業社長になり、08年光洋精工と豊田工機の合併
によるジェイテクトの設立に力を尽くして会長になった。


庄山悦彦・元日立製作所社長、元日本経団連副会長
6月5日すい臓がんのために死去。享年84歳

経団連の副会長の時に経団連の会長だったトヨタ自動車の奥田会長から「次の会長に頼む

4

」と再三いわれたが、断った。このために奥田会長はキャノンの御手洗富士夫会長を選ん
だ。
日立は日本経団連では歴代副会長しか務めなかったが、榊原会長の後に日立の中西宏明氏
が初めて就任した。庄山氏はこの中西氏の会長就任には反対しなかったようである。


鬼沢正(おにざわ・なおし)元三井建設(現三井住友建設)社長
6月9日老衰で死去。享年94歳。
三井不動産の広報室長を長く勤め、中興の祖である江戸英雄会長に忠勤を励んだ。三井
鉱山が斜陽になった時に江戸英雄氏が鬼沢さんを不動産にスカウトした。茨城県の出身と
いうことが二人が終生結ばれた縁になった。


太田哲夫・元日経新聞専務、元QUICK社長
6月13日心不全のために死去。享年87歳。
日経ビジネス編集長や東京本社編集局長を務めたが、新聞記者特有の偉ぶった態度があ
った。日経では社長以上の態度の大きさである、といわれた。

| 追悼録 | 11:17 | - | - | pookmark |
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