2018.02.08 Thursday

阿部泰久・経団連常務理事の早い死去


経団連の税制グループ長を務めていた阿部泰久氏が17年11月25日に心不全で死去した。62歳であり、そのあまりの早い死

去にびっくりした。阿部氏には同じ名前ということもあり親近感を抱いてきただけに残念でならない。

| 追悼録 | 08:56 | - | - | pookmark |
2018.02.08 Thursday

東芝の西田会長が死去


東芝の社長、会長を務めた西田厚聡氏が17年12月8日に急性心筋梗塞で死去した。同社では会長、社長を務めた西室泰三氏が17年10月に14日に死去しており相次ぐ不幸に見舞われている。

西田氏には私としては思い出もある。経団連が毎年年末に行う記者懇談会に西田氏が来た。当時は経団連会長を狙っており、われわれの質問にも丁寧に答えてくれた。西田氏は日本観光協会の会長をしていたが、インタビューなどにも応じなかった。そこで「おかしいではないか。私は観光の記事を書いておりインタビューすべきでないか」といったら「私は忙しいので理事長におお願いしてインタビューしてください」ということでインタビューができた。即断即決だった。こうしたことがWHの買収問題で失敗したのか、とも思った。

 

| 追悼録 | 08:55 | - | - | pookmark |
2017.05.02 Tuesday

追悼録 元日本政策投資銀行副総裁元藤和不動産会長 寺澤則忠(てらさわ・のりただ)さん 3月1日死去 享年73歳。葬儀は3月7日に都内文京区の護国寺桂昌殿で行われた。

 

 約40年前寺澤さんは日本政策投資銀行の前身である日本開発銀行の広報担当をしていた。当時は総務部の中に広報担当者がおり副長だった。総裁が大蔵省から来ており、吉岡英一氏で、副総裁は日銀から来ており渡辺孝友氏であった。吉岡総裁は体が大きく愛想のない人だった。国税庁長官、中小企業金融金庫を経て総裁になっただけにぎょろりとした目には迫力があった。渡辺副総裁は日銀では筆頭理事を務めてきた。

 池田勇人蔵相が作り、25年たった中で生え抜きの職員が副総裁に、ということが強い願望としてあった。寺澤氏や部下の大岡哲氏(元日大教授)は事あるごとに「阿部さん、何とか生え抜きの副総裁はできませんかね」と言っていた。寺澤氏も大岡氏も東大卒業であり、大蔵省や日銀に行ってもおかしくない人材である。そうした中で彼らの上司である総務部に小宮和彦次長がいた。小宮氏も日比谷高校、東大卒業でたまたま高校のラクビー部の先輩でもあった。何とか副総裁にできないものか、といろいろ情報を集めた。日銀の代わりにはいるか、副総裁を二人にするか、という話があったが日銀は副総裁のポストを離さずに渡辺副総裁の後は多島達夫氏が就任した。我々の願望は実現しなかった。

 しかし、われわれの願望はそれからだいぶたって1999年に梶田邦孝理事が初めて生え抜きで副総裁に就任し、その次に寺澤さんがなった。寺澤さんとしては先輩の小宮氏がなれなかったポストに就いたということで感無量だったに違いない。

 寺澤さんは副総裁を終えた後で藤和不動産の会長になった。藤和不動産はゼネコンのフジタの子会社で業績が悪化して三菱地所に買収された。藤和不動産は大蔵省から天下りした牧野誠一社長時代から取材してきており一時は優良企業だった。しかし、バブルの時代に不動産をたくさん買ったことの負担が裏目に出て、杉浦重厚社長の時に三菱地所に買収された。

 寺澤さんに不動産会社の会長になって大変でしょう、と話したら「不動産の経営にはタッチしませんよ。あてがいぶちをもらうためのポストですよ」と話していた。開銀と三菱地所とは池袋のサンシャインシティの建設などで関係が深い。

 寺澤さんとはいろいろなパティーであつた。財界関係の会合が多かった。そうした時に「阿部さん元気ですか?」と言って「元気ですよ。寺澤さんはどうですか?」と言って別れた。

 告別式にはたくさんの人が来ていた。朝日新聞で論説主幹をしていた大軒由敬氏と会った。「勉強会で一緒で1月の時に会った時には元気だったのにー」と話していた。また、朝日新聞の編集委員を務めた早野透氏も来ていた。東大で同期の新日鉄にいた勝井邦彦氏もいた。「勝井、何でここにいるんだ」というと「大学の法学部で丸山真男ゼミで一緒だった。早野君もゼミで一緒だ。昨年のゼミの会でも元気だったのにー」と話していた。

 寺澤さんはこうした大学時代や社会人になってからもいろいろなグループに入り交遊を深めていた。NTTデータの副社長をしていた大学同期の佐藤誠氏も「海外の視察に一緒に行ってその仲間で会を作っていた。寺澤君も必ず来ていた。こんなに早くなくなるとは」と話していた。

 昨年2月に食道がんが見つかったが放射線で治療していた。

 娘さんの希美(のぞみ)氏はザルスブルグ音楽祭でバイオリンコンチェルト・ソリストコンクールで優勝した。寺澤さんは娘さんのリサイタルなどがあると一生懸命に応援していた。


 

| 追悼録 | 15:23 | - | - | pookmark |
2017.04.01 Saturday

追悼録 ナムコ(現バンダイナムコホールディングス)創業者 中村雅哉(なかむら・まさや) 1月22日死去。享年91歳。お別れの会は3月21日帝国ホテル東京で。

 今やビデオやパソコンを使ったゲームは日本のお家芸であり、各国から注目されているが、こうしたアミューズメント業界を作り上げてきたのが中村さんである。鉄鋼や自動車、家電など物づくりが幅を利かせている日本の経済界では隅のほうにちんまりしてきた。20年以上前になるが、東京商工会議所のパーティーで中村さんを見かけた。誰もそばにいないので当時は財界担当の記者だったので名刺を出してあいさつした。「記者さんですか。何かあれば遠慮なく会社に来てください」と言われたことを覚えている。体が大きく黒っぽいのグラスの眼鏡をかけていた。

東京・神田で生まれた。家は銃砲店をしていた。戦後のものがない時代であり、狩猟用の銃砲の需要は多かった。横浜国立大学工学部の造船科を出た後、忙しかった家の仕事を手伝った。しかし、規制が厳しく販売するのにはいろいろな許可が必要で大変だった。父親に何とかするように言ったことから再三喧嘩になり7年務めた後に独立した資本金300万円で東京・池上に中村製作所を設立した。29歳であった。光子夫人の実家の一室に間借りしてのスタートだった。何をするかも独立してから考えていった。思いついたのが遊戯類を設置する営業である。古い木馬が2台あったのでそれを販売することから始めた。

 当時は人が集まるのはデパートであった。大学の時代に通った横浜市伊勢佐木町のデパート「松屋」に営業に行き木馬2台を設置したのが最初の仕事になった。中村さんは東京のデパートにも売り込みをかけた。トップの三越は岩瀬英一郎社長は「屋上に木馬などはとんでもない」とけんもほろほろである。中村さんは屋上に遊戯類がなければ「百貨店でなく九九貨店ですよ。何とか考えてください」とあの手この手でプッシュした。63年に松田伊三雄社長の時に納入できた。

勝負に出たのは74年である。当時の資本金の2倍を投じて米国アタリの日本事業を買収してビデオゲームに進出した。ビデオ開発では業界では腕利きの石村繁一氏が入社して開発技術を徐々に蓄積していった。80年には「パックマン」が発売され世界でもブームになり業務用ゲーム機でギネスにも登録された。2010年8月には「国際ビデオゲームの殿堂」に基礎を作った先駆者5人の一人としてパックマンとともに選出された。

中村さんは仕事には厳しかった。新製品についてはネーミングからチェックする。部下でバンダイナムコホールディングスの石川祝男会長は「私がモグラ退治の後のワニ退治の危機を作った時、ワニワニパニックというネーミングにしたいと言ったら、チェックが入り認められなかった。何とかパニックという言葉を使いたかったので5回説得をした。それでやっと認められた」と話している。しかし、「若手のやりたいことは積極的に認めてきた」と石川氏。

ワニワニパニックはその後、カニカニパニック、サメサメパニック、タコピカパニックとパニックシリーズに続いた。

胃がんで全摘手術をした後、96年に現役復帰して社長になった。1年の3分の1は海外出張し、国内にいる時には深夜に起きて仕事の構想を練り、早朝の散歩から帰ってひと眠りして出社していた。こうした元気さも90歳を超えると体が思うようにならなくなった、という。

「遊びはオニが作る」ということを新聞のインタビューの表題にしたように、子供のころの鬼ごっこがアミューズメント産業の原点である、と主張していた。

 

| 追悼録 | 06:13 | - | - | pookmark |
2016.11.10 Thursday

作家の終活
75歳からの「信長の棺」で作家デビューして加藤廣氏が「昭和からの伝言」(新潮社 初版16年8月)を書いた。加藤氏の生まれてから現在までの履歴書と若い人たちへのお願いを書いている。それによると加藤氏は東大法学部を卒業した時にホンダに行くか日本中小企業金融公庫に行くかの選択があった。新しくできた公庫に興味をもってそちらに進んだ。作家になる夢もあったことも公庫を選んだ理由でもある。公庫では大蔵省、通産省から来た幹部との摩擦を感じながら仕事をしてきた、と書いている。
加藤氏が公庫の審査について企画部時代に早くするやり方を通産から来た幹部に見せたところ、それが日本興業銀行から来た幹部に見つけられて「君はどういう考えなんだ。今までやってきた興銀方式の審査にもんだいがあるのか?」とつるし上げられてこのやり方がほうむられた。
ところがそのあとに大蔵省から来た吉岡総裁が加藤氏の案を採用して審査が早くなった。加藤氏は「サラリーマンというのはトップ次第ですね」と書いている。
一方、企業作家の高杉良氏は「小説新潮」の16年2月号から「小説・めぐみ園の夏」の連載を始めた。この小説は高杉氏の少年のころのことを書いており、自叙伝である。作家になるまでのことを書き綴ってゆくことになる。老齢化時代になり作家も高齢者になるとともに自分の来た道を書いて終活する。

 

| 追悼録 | 07:08 | - | - | pookmark |
2016.11.10 Thursday

藤森さんへ10月29日 コンフィデンシャルです
(経済編)
石川六郎・日商会頭の妻ヨシ子さん死去
石川六郎・日商会頭の妻のヨシ子さんが9月25日に87歳で死去した。ヨシ子さんは。鹿島建設のドンだった鹿島守之助と卯女の次女。長女は伊都子、三女は三枝子の女3人で弟は昭一の4人兄弟。長女の旦那は渥美健夫氏で通産省の役人。三女は平泉渉氏で外務省の役人だった。伊都子、三枝子はすでに死去しており、華麗なる一族の姉妹の最後の死去だった。
ヨシ子さんは守之助夫妻がイタリアに外交官として勤務していた時にローマで生まれ画家を志した。日本女子大美術史科を卒業した後、画家の倉田三郎氏(春陽会)に師事して日本画の道を歩んだ。 52年には日展に入選するともに個展も日本だけではなくローマやミラノなどで開いた。日動画廊での個展は02年までに10回開いている。画集「華」を出版するとともにフィレンツェで個展「華」、日本では彫刻の森美術館で同じ個展を開いている。
こうした画家として活動するとともに鹿島建設の社長、会長を務め、日商会頭として活動する六郎氏の妻として陰で支えた。
鹿島建設の社長はこのところ生え抜きが務めており、鹿島一族からは石川氏以来出ていない。ヨシ子さんの長男の洋・副社長(営業本部長)がいつ社長になるのかが注目されている。
当初、ヨシ子さんのお別れ会を開く予定だったが「諸般の都合で中止します」ということになった。鹿島家の中で三姉妹の中でヨシ子さんだけお別れ会を開くことに批判が出たために中止することになったようだ。ヨシ子さんと親しい画家の関係者は残念がっている。

 

| 追悼録 | 07:07 | - | - | pookmark |
2016.11.01 Tuesday

 石川六郎・日商会頭の妻ヨシ子さん死去

 石川六郎・日商会頭の妻のヨシ子さんが9月25日に87歳で死去した。ヨシ子さんは。鹿島建設のドンだった鹿島守之助と卯女の次女。長女は伊都子、三女は三枝子の女3人で弟は昭一の4人兄弟。長女の旦那は渥美健夫氏で通産省の役人。三女は平泉渉氏で外務省の役人だった。伊都子、三枝子はすでに死去しており、華麗なる一族の姉妹の最後の死去だった。

 ヨシ子さんは守之助夫妻がイタリアに外交官として勤務していた時にローマで生まれ画家を志した。日本女子大美術史科を卒業した後、画家の倉田三郎氏(春陽会)に師事して日本画の道を歩んだ。 52年には日展に入選するともに個展も日本だけではなくローマやミラノなどで開いた。日動画廊での個展は02年までに10回開いている。画集「華」を出版するとともにフィレンツェで個展「華」、日本では彫刻の森美術館で同じ個展を開いている。

 こうした画家として活動するとともに鹿島建設の社長、会長を務め、日商会頭として活動する六郎氏の妻として陰で支えた。

 鹿島建設の社長はこのところ生え抜きが務めており、鹿島一族からは石川氏以来出ていない。ヨシ子さんの長男の洋・副社長(営業本部長)がいつ社長になるのかが注目されている。

 当初、ヨシ子さんのお別れ会を開く予定だったが「諸般の都合で中止します」ということになった。鹿島家の中で三姉妹の中でヨシ子さんだけお別れ会を開くことに批判が出たために中止することになったようだ。ヨシ子さんと親しい画家の関係者は残念がっている。

| 追悼録 | 00:01 | - | - | pookmark |
2016.09.26 Monday

追悼の記 小林惣一郎・元不動産流通研究所所長 6月25日多機能不全のため死去。76歳。

 

ああ、悲しいかなコバちゃんの死去

 

小林さんに対して我々は「コバちゃん」と言っていた。コバちゃんとは私が朝日新聞経済部で不動産・建設業を担当した時に知り合ったので36年の付き合いになる。当時、月刊不動産流通の編集長であり取材の場でよく会った。こうした取材の場では発言などはしないが、懇談会やパーティなどではよく会い、当時のトップを紹介してくれた。國學院大學を卒業した後、「週刊住宅」、「不動産経済研究所」などの記者をしていたので、業界のトップはほどんと知っていた。

酒の会だけでなくゴルフなどでも一緒のこともあった。ある時に不動産会社の広報と記者のゴルフの集まりがあるので来ないかと言われ「かすみ会」に入った。半年に一度、三井不動産、住友不動産、三菱地所、東急不動産などが幹事になってプレーする。この会に入って広報の人たちと親しくなった。コバちゃんはこうした会などでは世話役として面倒を見ていた。この会は今でも続いており、「OBかすみ会」と名前を変えている。7月22日にこの会が「川崎国際生田緑地ゴルフ場」で15人が集まった。ところがこの日は台風が来たために雨でプレーは中止になった。全員集まったので朝から酒を飲んでコバちゃんの追悼会になった。不動産協会の専務理事だった松本隆正さんが「小林さんは私より誕生日が10日遅いのに早く逝ってしまい、痛恨の極みです。奥さんの話では病気を発症してから2年半になりますが、最後はみんなに『ありがとう』と言ってました」という話が披露された。そのあとはそれぞれが思い出を話しました。私は「コバちゃんはみんなの面倒を良く見てくれました。ここにいる人たちもお世話になった人も多いと思います。私も朝日新聞を辞めようと思って相談したところ金のことは心配しないでいいよ、と言われ心強く思いました。私は結局辞めずに最後までいましたが」と話した。

蓼科カントリークラブで当時、まだ専務の田中順一郎夫妻と一緒にゴルフをしたり、三菱地所の高木丈太郎社長、東急不動産の安芸哲郎社長などと飲んだりしました。コバちゃんのいつも世話役でした。若手の広報担当者を集めて勉強会も続けていました。

いろいろな会で終わる時は必ずコバちゃんの「フレーフレー」がありました。

忘れられないのは蓼科に行った時に麻雀をしていた時に突然に怒り出した朝、一人で帰ってしまったことがあります。三井不動産の広報部長の永井啓介さんが困ったこともありました。

「怒りやすくなんで怒こっているかわからないことがありました」と尾留川功さん(元住宅新報)も話していた。いろいろな会で終わる時は必ずコバちゃんの「フレーフレー」がありました。

話は尽きませんが最後は伊豆田道雄さん(元高層住宅協会)の「フレーフレー小林」の応援歌で締めました。

| 追悼録 | 06:43 | - | - | pookmark |
2011.02.11 Friday
 

エバラ食品工業創業者、名誉会長 森村国夫

 2010年11月15日肺炎のため死去。享年91歳。お別れの会は12月17日に都内の品川プリンスホテルで開かれた

 「焼肉のたれ」で有名になったエバラ食品工業を立ち上げ、優良企業に育てた。群馬県伊勢崎市境町から小学校を卒業して、東京に出てきて身一つで会社を興した。その会社がいまや400億円の売上げをあげる超優良会社になった。それまでになった一つの決断があった。一緒に事業をしてきた次兄の武次郎氏との決別である。

  戦後の何もない中で兄とソース作りを東京都品川区で始め、アスパラベースのフルーツソースやかぼちゃベースのトマトケチャップなど次々に商品として売り出していった。「キンケイミルクカレー」を発売し、これが爆発的に売れて会社の基盤を作った。社名を「キンケイ食品工業」にして社長は武次郎氏で森村さんは工場長という事になった。

 このキンケイ食品工業に対して明治製菓から提携の申し入れがあった。武次郎社長は「大きな企業と組めば金繰りも安心だし、社員も喜ぶ」と前向きになった。それに対して森村さんは「大きな会社と組めば安心かもしれないが、のっとられてしまう。小さいなりで独自の路線を行くべきだ」と反対した。郷土の出身の政治家で総理大臣にもなった福田赳夫氏が顧問をしていたので森村さんは福田さんに「こうした提携は止めさせるように兄の社長に言ってください」と言った。兄は忠告を聞かずに、最終的に明治製菓と折半出資して「新キンケイ食品工業」を作り、東証2部上場した。明治製菓から社長をはじめ役員が来て、兄の武次郎氏は当初、会長だったが相談役になり明治製菓に取られてしまった。新キンケイ食品工業は明治製菓に経営権を委譲して、キンケイのブランドも消えてしまった。

 森村さんは戦友の田中忠一朗氏に任せていた子会社の「荏原食品」(68年にエバラ食品工業に社名変更)の経営が悪くなったのでその建て直しのために社長になった。資金繰りから始めた。それまで付き合ってきた横浜銀行は「昼間から酒のにおいをさせている社長の会社には貸せない」と断られて、伝を頼って東京の信用組合と取引をした。資金が足りないために姉二人に頼んで土地を担保に資金繰りして仕事を始めた。はやり始めていたインスタントラーメンのスープがあたり、次いで業務用の札幌ラーメンの素(ミソ、白ミソ)で基盤を築いていった。1968年春から「焼肉のたれ」を肉屋の店頭に置き、次いでスーパーの店頭に置くようになった。

 テレビの宣伝に力を入れていった。その時にテレビのカメラをスーパーに来てもらいそこで「焼肉のたれ」を写す。「お客さんはテレビ会社が来ていることで人が集まり宣伝になる。テレビ会社は嫌がったがその会社1社しか出さない事でやってもらった」と話していた。「エバラ焼肉のたれ 黄金の味」を78年に売り出した。その当時、NHKテレビで「黄金の日々」というドラマが放送されていた。それまでの商品は1種類であったのを桃、梅、マンゴーなどをベースにしたものを出した。そのネーミングに黄金を入れた。これが当って売上げが116億円と100億円を突破した。

 お別れの会では横浜銀行の小川是頭取が「妙蓮寺支店長だった熊田節郎があなたの創造力、決断力、実行力、忍耐力が必ず成功すると確信して積極的に取引を開始して、友好な関係を築く事ができました」と述べた。支店長が熊田氏の時代に森村さんがたずねて行き取引を開始した。熊田氏は1億円を融資するとともに信用組合の高い金利の資金の返済資金も肩代わりした。熊田氏はその後、副頭取になった。

 お別れの会には大日本印刷の北島社長や味の素の伊藤社長のほか芸能人の橘家円蔵、峰竜太など1500人が参列した。

| 追悼録 | 07:14 | - | - | pookmark |
2010.12.06 Monday
追悼録 山口信夫さん 前日本商工会議所会頭、旭化成名誉会長 9月14日、心不全で死去。享年85歳。お別れ会は11月19日に都内の帝国ホテルで。

 9月7日に旭化成の記者懇談会が手国ホテルで開かれた。まだ猛暑が続いている頃で汗を拭き拭き駆けつけた。出席名簿に山口さんの名前があった。日商の会頭を6年務めたので財界についての話を聞くのがこの会の楽しみの一つであった。今回は社長が蛭田史郎氏から藤原健嗣氏に代わったので新社長に会うのも楽しみであった。ところが山口さんの姿が見えなかった。秘書を長く務めた水野雄氏・常務取締役に聞いたところ「検査入院で欠席です。心配は要りませんよ」という。次の会で会えるとばかり思っていた。ところが15日の新聞に「心不全で死去」とあった。ビックリした。

 山口さんはどんな会合でもピット姿勢を伸ばし、顔色も良くどこも悪いようには見えなかった。ところが肝臓がかなり前から悪く検査をしていた。今回も8月末から検査入院をした。伊藤一郎会長も「いつもの検査だと思っていた。13日夜に危ないという連絡でビックリして病院に駆けつけましたが、話は出来なかったですね」と話している。

 私が山口さんと面識を持ったのは朝日新聞時代に化学・繊維担当をしていたときであった。住宅事業部長であった。それほど取材したという記憶はない。財界の担当になった時、当時の日商会頭は永野重雄氏で広島県出身であった。同じ広島県出身の東映の岡田茂氏と山口さんは広島県人会で親しかった。岡田氏と山口さんが神奈川県茅ヶ崎市にある「300ゴルフクラブ」でゴルフをした。プレー中に山口さんが「申し訳ないのですが、内の宮崎輝社長から直ぐに帰って来いというのでこれで失礼させてもらいます」と岡田氏に話して帰っていった。岡田氏は「山口君もかわいそうだよ。休みでも呼び出されるんだから」と話したことを思い出す。当時は山口さんは秘書室長。土曜日曜もなく働いていた宮崎氏からの電話はしょっ中だった、という。

 山口さんが社内で頭角を現したのは住宅事業を軌道に乗せたからである。ロシアのチチカリチートという住宅を輸入して始めたが失敗して現在のへーベルハウスに変えた。当時、新日鉄、東レ、東芝、トヨタ自動車などが一斉に住宅部門に進出した。山口さんは販売の陣頭指揮を執った。旭化成ホームズの土屋友二・元社長は「住宅を売る仕事は人が財産である。しっかりした人を育てるためにリーダークラスを集めて話しをした。休みの日を使って行った。薄氷戦の時は自らリーダーが出なくてはいけない。山口さんが言うなら仕方がないというようになりましたね」という。こうした住宅部門から土屋氏や山本一元・元旭化成社長など山口門下生が出た。

 宮崎氏が消費税の導入の時に反対するために東京商工会議所の議員になった。この議員選挙で山口さんは票集めで企業にお願いに回った。そうした縁で東商の副会頭になり76歳の時に稲葉興作会頭(IHI会長)の後を継いだ。山口さんは中小企業のために全力を上げた。地方の「シャッター通り」を解消するために、中心部にスーパーなどの進出を規制する「街作り三法」の改正をした。この改正には日本経団連などが反対したが、地方の活性化のためにがんばった。外形標準課税についても中小企業は対象外にするように運動した。

 山口さんは陸軍士官学校を卒業して、戦地に出て3年間ソ連に抑留された。そうした苦労があるためか、人の和を重んじ気配りをする人であった。パーティーでも会うとニコニコと話しかけ、優しい笑顔が忘れられない。

 健康には気をつけてタバコはすわず、60歳から酒を飲まなくなった。足首に両方で1kの重しをつけて歩いていた。70歳のときに社内コンペで一番飛ぶドラコン賞を取った。

 「一隅を照らす」という言葉が好きで、どこでも一生懸命働く人を評価した。旭化成ホームズの離職率が低い事を喜んでいた。

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