追悼録 下村澄さん(しもむら・きよむ)
2010.02.06 Saturday
ニュービジネス協議会元専務理事 素心・不器会・会長
2009年11月19日死去。享年80歳。12月21日に日本プレスセンタービルでお別れの会を開いた。
下村さんが死去したことを勉強会の「大園会」を主催している森川宗弘さんのメールで見た。
「あの下村さんが挨拶もせずに居なくなってしまった」という。このところの下村さんが会長をしている「素心・不器会」の朝の論語を読む勉強会に欠席していたのでどうしたのか、と心配していた。事務局をしている「日本企業調査会」に聞いたところ、19日に自宅で静かに眠るように死去した、という。私が下村さんと最初に会ったのは第4の財界団体を目指して発足した「ニュービジネス協議会」(NBC)の専務理事の時代である。当時の会長は日本電気の関本忠弘さんだった。理事会の後の記者会見で関本さんがとうとうとしゃべるのを下村さんはその補佐役としてそばにいた。当時のNBCはユニ・チャームの高原慶一朗社長やシダックスの志太勤社長、CSKの大川功社長(死去)などが出席して活発に活動していた。若手の経営者の勉強会なども泊り込みでやり、私も出席して桜ゴルフの佐川八重子さんやマルチサービスの角廣志さんなどと知り合った。
会長がアサヒビールの樋口広太郎さんに代わって、専務理事もアサヒから来て、下村さんは退いた。
下村さんは陽明学者の安岡正篤(まさひろ)さんに師事していた。大阪の毎日放送の社員の時代の1961年に安岡さんの講演を住友ホールに聞きに行った。そのときのことを「講義内容の迫力もさることながら、実はまず先生の涼やかな、なんともいえない美しい声に心を打たれてしまった。以後、先生の講演には機会あるごとに出かけるようになり、また個人的な会合の末席をけがし、先生がなくなるまでの23年間、親しく接触させていただいたのである」(「安岡正篤から学んだこと」 アーカイブス出版)と書いている。
安岡さんの考えを広めようと06年9月に「素心・不器会」を作った。不器会という名前は論語から取ったもので茶碗や土瓶はその働きしかしないので、立派な人になるにはこうした器であってはならない、ということからきている。この会では第3水曜日の朝7時から銀座のレストランで「論語」と安岡さんの書いた「百朝集」の読書会をしている。下村さんからこの会に来るように勧められて、07年2月から出席している。会長の下村さんが挨拶をして始まる。下村さんは挨拶すると、「こちらに来て座りなさい」と前の席を勧める。
この会で論語を解説しているのは安岡さんの孫である定子さんである。定子さんは
「出会ったのは20歳の頃で、いつも笑顔で颯爽としており、若い私などにも気さくに声をかけてくださっていました。結婚まもない頃に古典の勉強会にも誘ってくださいました。いつだったか麻布のてんぷら屋さんに誘っていただきカウンターに並んでお食事をしたことが楽しい思い出として残っています。昨年、『こども論語塾』(明治書院)を出版した時は『良い本だ』と褒めてくださった時は嬉しかったです」
と思い出を話した。
下村さんは多くのインフォーマル・グループの仕掛け人でもあり演出者でもあり「会魔」といわれてきた。勉強会の横断的な組織である「知恵の輪」の代表を務めていた。
こうした会で協力し、家族ぐるみの付き合いだった古宮道世・日本科学振興財団理事長は
「面倒見が良いので、いろいろな人を紹介してくるのです。中にはとんでもない人もいて迷惑なこともありました。いい加減にしてくださいよ、といいました。しかし、憎めない人だったですね」
と話していた。
2009年11月19日死去。享年80歳。12月21日に日本プレスセンタービルでお別れの会を開いた。
下村さんが死去したことを勉強会の「大園会」を主催している森川宗弘さんのメールで見た。
「あの下村さんが挨拶もせずに居なくなってしまった」という。このところの下村さんが会長をしている「素心・不器会」の朝の論語を読む勉強会に欠席していたのでどうしたのか、と心配していた。事務局をしている「日本企業調査会」に聞いたところ、19日に自宅で静かに眠るように死去した、という。私が下村さんと最初に会ったのは第4の財界団体を目指して発足した「ニュービジネス協議会」(NBC)の専務理事の時代である。当時の会長は日本電気の関本忠弘さんだった。理事会の後の記者会見で関本さんがとうとうとしゃべるのを下村さんはその補佐役としてそばにいた。当時のNBCはユニ・チャームの高原慶一朗社長やシダックスの志太勤社長、CSKの大川功社長(死去)などが出席して活発に活動していた。若手の経営者の勉強会なども泊り込みでやり、私も出席して桜ゴルフの佐川八重子さんやマルチサービスの角廣志さんなどと知り合った。
会長がアサヒビールの樋口広太郎さんに代わって、専務理事もアサヒから来て、下村さんは退いた。
下村さんは陽明学者の安岡正篤(まさひろ)さんに師事していた。大阪の毎日放送の社員の時代の1961年に安岡さんの講演を住友ホールに聞きに行った。そのときのことを「講義内容の迫力もさることながら、実はまず先生の涼やかな、なんともいえない美しい声に心を打たれてしまった。以後、先生の講演には機会あるごとに出かけるようになり、また個人的な会合の末席をけがし、先生がなくなるまでの23年間、親しく接触させていただいたのである」(「安岡正篤から学んだこと」 アーカイブス出版)と書いている。
安岡さんの考えを広めようと06年9月に「素心・不器会」を作った。不器会という名前は論語から取ったもので茶碗や土瓶はその働きしかしないので、立派な人になるにはこうした器であってはならない、ということからきている。この会では第3水曜日の朝7時から銀座のレストランで「論語」と安岡さんの書いた「百朝集」の読書会をしている。下村さんからこの会に来るように勧められて、07年2月から出席している。会長の下村さんが挨拶をして始まる。下村さんは挨拶すると、「こちらに来て座りなさい」と前の席を勧める。
この会で論語を解説しているのは安岡さんの孫である定子さんである。定子さんは
「出会ったのは20歳の頃で、いつも笑顔で颯爽としており、若い私などにも気さくに声をかけてくださっていました。結婚まもない頃に古典の勉強会にも誘ってくださいました。いつだったか麻布のてんぷら屋さんに誘っていただきカウンターに並んでお食事をしたことが楽しい思い出として残っています。昨年、『こども論語塾』(明治書院)を出版した時は『良い本だ』と褒めてくださった時は嬉しかったです」
と思い出を話した。
下村さんは多くのインフォーマル・グループの仕掛け人でもあり演出者でもあり「会魔」といわれてきた。勉強会の横断的な組織である「知恵の輪」の代表を務めていた。
こうした会で協力し、家族ぐるみの付き合いだった古宮道世・日本科学振興財団理事長は
「面倒見が良いので、いろいろな人を紹介してくるのです。中にはとんでもない人もいて迷惑なこともありました。いい加減にしてくださいよ、といいました。しかし、憎めない人だったですね」
と話していた。