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2010.09.09 Thursday
博報堂元社長、元大蔵省国税庁長官 近藤道生(こんどう・みちたか)

 6月30日急性心不全のため死去。享年90歳。お別れの会は7月28日ホテルオークラ東京で行われた。

 国税庁の長官を辞めて2年経った75年7月に、突然広告業界で2位の博報堂の社長になった。大蔵省のOBとしては異例の事である。電通と激しい争いをしている会社に入って大丈夫か。という心配の声があった。近藤さんは日経新聞に書いた私の履歴書で「君はあの会社が派閥争いでもめている事を知らないのか?」「あの業界は君のような役人上がりが出来るところではない」という声がきた、と書いている。

 当時、博報堂は福井純一氏(故人)が社長で権力を振るっていた。福井氏が近藤さんに「顧問で良いから来ていただきたい」というのが最初の頼みであった。ところが顧問から副社長になり、最後は「社長にお願いしたい」ということになった。福井氏は自ら副社長になり、近藤さんが社長になった。福井氏は前任者の瀬木一族3代目の瀬木庸介社長から社長を引き継いだ。福井氏と瀬木氏は成蹊大学で同期であり、瀬木氏が宗教団体の「白光真宏会」に力を入れていった事から社長を頼まれた。この人事に庸介氏の叔父である博政氏は「どうして瀬木一族以外のものに社長を渡すのか?」とクレームをつけた。このために福井社長は博政氏に対抗するために博報堂の株をモーレツに集め始めた。株集めの手段が会社に被害を与えたとして博政氏が検察庁に告訴して捜査が始まった。福井氏らのしたことは「守銭奴たちの四季」(草野洋著、雷韻社)に詳しく書かれている。

 75年10月3日に博報堂本社に検察庁の捜査が入った。近藤さんは「しまった。こんな事になるなら社長を引き受けなければ良かった」と反省した。社内は動揺した。そうした動きを見て近藤さんは400人の幹部社員を行動に集めて「日露戦争の故事を引いて『東郷平八郎元帥は旗艦三笠の艦橋で微動だにしなかった。私も元帥のひそみに習い、決して艦橋から動かない。よって各員一層奮闘努力していただきたい』」と話した。社員と家族1万人を守るために会社の建て直しに全力を挙げた。総会屋などへの金も切ったことから会社の周りに街宣車などが回ったが、一線を守って金は出さなくなった。

 76年1月になって福井氏と側近3人が特別は背任容疑で逮捕された。同年2月に田中角栄・元首相を巡るロッキード事件の捜査が始まり検察庁もそちらに力を入れ始めたために、博報堂の事件は大きく報道されなくなった。

 今まで福井社長に冷遇されていた優秀な社員を取り立てると同時に博報堂の強みがある製作部門に力を入れていった。さらに81年には「博報堂生活総合研究所」を作り、新しい部門への挑戦を始めた。近藤さんは社長を8年務めたあと後任に国税庁長官だった磯辺律男氏を指名して会長になった。

 近藤さんは42年9月に相沢英之氏らと大蔵省に入省した。その後、海軍主計大尉として南方のペナンなで戦った。戦後、南方で捕虜生活1年4ヶ月、戦争の後始末の裁判などの連絡などに従事した。やせ細った姿で帰国し、実家の小田原に帰った。父親の外巻(とまき)が医者をしていた事もあって病状はよくなり、再び大蔵省に勤務した。池田蔵相の秘書官を勤めたときに池田蔵相に辞意を伝えた。その日に池田邸に呼ばれて満江夫人から辞意の撤回を懇々と諭されて思いとどまった。

 近藤さんは茶人である父から茶を習い、俗世間から足を洗いたかったのだろう。近藤さんは茶については「茶の湯がたり 人がたり」(K・K淡交社)という本も出している。

 茶人である三井の大立者の益田孝(鈍翁)、東京電力の松永安左エ門(耳庵)などとの交流を書いている。

 お別れ会で配られた冊子で息子の喪主良二さんは近藤さんが良く口にしていた言葉を書いている。

 「この世おば どりゃお暇(おいとま)に 線香の煙ともどもに 灰左様(はいさよう)なら」
| 追悼録 | 06:39 | - | - | pookmark |
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