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2010.12.06 Monday
追悼録 山口信夫さん 前日本商工会議所会頭、旭化成名誉会長 9月14日、心不全で死去。享年85歳。お別れ会は11月19日に都内の帝国ホテルで。

 9月7日に旭化成の記者懇談会が手国ホテルで開かれた。まだ猛暑が続いている頃で汗を拭き拭き駆けつけた。出席名簿に山口さんの名前があった。日商の会頭を6年務めたので財界についての話を聞くのがこの会の楽しみの一つであった。今回は社長が蛭田史郎氏から藤原健嗣氏に代わったので新社長に会うのも楽しみであった。ところが山口さんの姿が見えなかった。秘書を長く務めた水野雄氏・常務取締役に聞いたところ「検査入院で欠席です。心配は要りませんよ」という。次の会で会えるとばかり思っていた。ところが15日の新聞に「心不全で死去」とあった。ビックリした。

 山口さんはどんな会合でもピット姿勢を伸ばし、顔色も良くどこも悪いようには見えなかった。ところが肝臓がかなり前から悪く検査をしていた。今回も8月末から検査入院をした。伊藤一郎会長も「いつもの検査だと思っていた。13日夜に危ないという連絡でビックリして病院に駆けつけましたが、話は出来なかったですね」と話している。

 私が山口さんと面識を持ったのは朝日新聞時代に化学・繊維担当をしていたときであった。住宅事業部長であった。それほど取材したという記憶はない。財界の担当になった時、当時の日商会頭は永野重雄氏で広島県出身であった。同じ広島県出身の東映の岡田茂氏と山口さんは広島県人会で親しかった。岡田氏と山口さんが神奈川県茅ヶ崎市にある「300ゴルフクラブ」でゴルフをした。プレー中に山口さんが「申し訳ないのですが、内の宮崎輝社長から直ぐに帰って来いというのでこれで失礼させてもらいます」と岡田氏に話して帰っていった。岡田氏は「山口君もかわいそうだよ。休みでも呼び出されるんだから」と話したことを思い出す。当時は山口さんは秘書室長。土曜日曜もなく働いていた宮崎氏からの電話はしょっ中だった、という。

 山口さんが社内で頭角を現したのは住宅事業を軌道に乗せたからである。ロシアのチチカリチートという住宅を輸入して始めたが失敗して現在のへーベルハウスに変えた。当時、新日鉄、東レ、東芝、トヨタ自動車などが一斉に住宅部門に進出した。山口さんは販売の陣頭指揮を執った。旭化成ホームズの土屋友二・元社長は「住宅を売る仕事は人が財産である。しっかりした人を育てるためにリーダークラスを集めて話しをした。休みの日を使って行った。薄氷戦の時は自らリーダーが出なくてはいけない。山口さんが言うなら仕方がないというようになりましたね」という。こうした住宅部門から土屋氏や山本一元・元旭化成社長など山口門下生が出た。

 宮崎氏が消費税の導入の時に反対するために東京商工会議所の議員になった。この議員選挙で山口さんは票集めで企業にお願いに回った。そうした縁で東商の副会頭になり76歳の時に稲葉興作会頭(IHI会長)の後を継いだ。山口さんは中小企業のために全力を上げた。地方の「シャッター通り」を解消するために、中心部にスーパーなどの進出を規制する「街作り三法」の改正をした。この改正には日本経団連などが反対したが、地方の活性化のためにがんばった。外形標準課税についても中小企業は対象外にするように運動した。

 山口さんは陸軍士官学校を卒業して、戦地に出て3年間ソ連に抑留された。そうした苦労があるためか、人の和を重んじ気配りをする人であった。パーティーでも会うとニコニコと話しかけ、優しい笑顔が忘れられない。

 健康には気をつけてタバコはすわず、60歳から酒を飲まなくなった。足首に両方で1kの重しをつけて歩いていた。70歳のときに社内コンペで一番飛ぶドラコン賞を取った。

 「一隅を照らす」という言葉が好きで、どこでも一生懸命働く人を評価した。旭化成ホームズの離職率が低い事を喜んでいた。

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