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2017.04.01 Saturday

追悼録 ナムコ(現バンダイナムコホールディングス)創業者 中村雅哉(なかむら・まさや) 1月22日死去。享年91歳。お別れの会は3月21日帝国ホテル東京で。

 今やビデオやパソコンを使ったゲームは日本のお家芸であり、各国から注目されているが、こうしたアミューズメント業界を作り上げてきたのが中村さんである。鉄鋼や自動車、家電など物づくりが幅を利かせている日本の経済界では隅のほうにちんまりしてきた。20年以上前になるが、東京商工会議所のパーティーで中村さんを見かけた。誰もそばにいないので当時は財界担当の記者だったので名刺を出してあいさつした。「記者さんですか。何かあれば遠慮なく会社に来てください」と言われたことを覚えている。体が大きく黒っぽいのグラスの眼鏡をかけていた。

東京・神田で生まれた。家は銃砲店をしていた。戦後のものがない時代であり、狩猟用の銃砲の需要は多かった。横浜国立大学工学部の造船科を出た後、忙しかった家の仕事を手伝った。しかし、規制が厳しく販売するのにはいろいろな許可が必要で大変だった。父親に何とかするように言ったことから再三喧嘩になり7年務めた後に独立した資本金300万円で東京・池上に中村製作所を設立した。29歳であった。光子夫人の実家の一室に間借りしてのスタートだった。何をするかも独立してから考えていった。思いついたのが遊戯類を設置する営業である。古い木馬が2台あったのでそれを販売することから始めた。

 当時は人が集まるのはデパートであった。大学の時代に通った横浜市伊勢佐木町のデパート「松屋」に営業に行き木馬2台を設置したのが最初の仕事になった。中村さんは東京のデパートにも売り込みをかけた。トップの三越は岩瀬英一郎社長は「屋上に木馬などはとんでもない」とけんもほろほろである。中村さんは屋上に遊戯類がなければ「百貨店でなく九九貨店ですよ。何とか考えてください」とあの手この手でプッシュした。63年に松田伊三雄社長の時に納入できた。

勝負に出たのは74年である。当時の資本金の2倍を投じて米国アタリの日本事業を買収してビデオゲームに進出した。ビデオ開発では業界では腕利きの石村繁一氏が入社して開発技術を徐々に蓄積していった。80年には「パックマン」が発売され世界でもブームになり業務用ゲーム機でギネスにも登録された。2010年8月には「国際ビデオゲームの殿堂」に基礎を作った先駆者5人の一人としてパックマンとともに選出された。

中村さんは仕事には厳しかった。新製品についてはネーミングからチェックする。部下でバンダイナムコホールディングスの石川祝男会長は「私がモグラ退治の後のワニ退治の危機を作った時、ワニワニパニックというネーミングにしたいと言ったら、チェックが入り認められなかった。何とかパニックという言葉を使いたかったので5回説得をした。それでやっと認められた」と話している。しかし、「若手のやりたいことは積極的に認めてきた」と石川氏。

ワニワニパニックはその後、カニカニパニック、サメサメパニック、タコピカパニックとパニックシリーズに続いた。

胃がんで全摘手術をした後、96年に現役復帰して社長になった。1年の3分の1は海外出張し、国内にいる時には深夜に起きて仕事の構想を練り、早朝の散歩から帰ってひと眠りして出社していた。こうした元気さも90歳を超えると体が思うようにならなくなった、という。

「遊びはオニが作る」ということを新聞のインタビューの表題にしたように、子供のころの鬼ごっこがアミューズメント産業の原点である、と主張していた。

 

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