渡さんはキャノンの御手洗・経団連会長と親しく、ゴルフは安倍総理と一緒にプレーして、安倍総理から「御手洗さんや渡さんは歳に似合わずに飛ばすのでびっくりすることが多かった」と経団連の年頭のあいさつで披露されていた。
御手洗さんより若いだけにその死を残念がる経済人は多い。
新妻義輔(にいずま・よしすけ)元朝日新聞常勤監査役。元朝日新聞大阪、東京本社編集局長 2月7日死去。享年78歳。
大阪社会部の記者として活躍した。
]]>この学園の理事長、校長などを長年務めてきた
大沼淳さん(おおぬま・すなお・92)が年末のあわただしい中を身内だけでひっそりとあの世に旅立った。戦後のがれきの中から日本のファッションを売り物にした学園を世界中に認めさせてきた。
自らは表に出ないようにして「学校経営にはスターはいらない」を職員に徹底させて経営を引き締めてきた。
役人から学校経営に転身
大沼さんは長野県の北部にある野沢市に生まれ、旧制飯山中(現県立飯山北高校)を卒業した後、海軍兵学校76期として入学した。2年間勉学に励んだ後、終戦になり「どうするか?」ということになり偶然、図書館に人事院の事務官の採用試験の応募があり、試験を受けることになった。
大沼さんは「今と違って軍関係の学校に行っていたものには狭き門だった」という。9人兄弟という中で、生活も苦しく、何はともあれ試験を受けてみようということになった。
外地から引き上げてきた年配の人や学校を出たばかりの秀才などはおり、「合格はとても無理だ」と思っていた。そうした狭き門だったが行政職と専門職の二つの事務官に合格した。
赤城・元農相にかわいがられる
人事院の事務官として働き始めた。
日光市にある田母沢の御用邸に臨時に開設された研修所に集合することになった。200人前後の職員が集まり1班20人前後で12班で研修した。東大、東工大などの官学だけではなく早稲田、慶応など、私学組まで様々だった。そうした中で3か月の研修を終
えて東京・霞が関の人事院に勤務することになった。
母や兄が教師だったこともあって偶然だが、戦後の教員の人事制度を再構築する責任者になった。
人事院の担当者として日教組、文部省、国会と3社と連携しつつ、新制度をまとめ上げて現在の教員、人事制度を確立した。
こうした交渉の中で国会で文教委員をしていた自民党の川島正次郎氏、赤城宗徳氏、坂田道太氏、竹尾弐氏などと親しくなった。野党では日教組出身の岡三郎、太原亨、宮之原貞光、辻原弘市などとも親しくなり、国立大学協会会長の時にはこの人脈が役立った。
赤城宗徳議員には人事院事務官の時に2回り歳(辰年、24歳)の上の赤城氏が学校の看護師の年給がないことを問題として政府に運動した獲得した時からの縁である。その時に「風来花自笑」の書を送ってくれた。今でも大沼家の玄関の一番良いところに飾ってある。
赤城氏は「どんな逆境が来たとしてもそうしたことは長くはない。どんなに厳しい冬でも暖かい春は必ず来る」という意味をこの5文字に託している、という。
私的なことになるが、私が朝日新聞経済部で農林省を担当した時の大臣は赤城氏であった。歴代の大臣で赤城氏ほど評判の良い農林大臣はいなかった。
大沼さんが人事院に入院した後、どうなるか全くわからない時に何かと面倒を見てくれたのが赤城氏であった。赤城氏は茨城県選出の衆院議員だった。大沼さんは村風士然としてあちこちの流れにとらわれなかった。特に当時、教員の年金問題が宙に浮いていると
きに赤城氏に相談して、文部省や大蔵省と折衝した。応援団としていわゆる文教族の坂田
氏や宮之原氏などがついてくれた。
遠藤氏から文化学園を任される
文化服装学園は並木学園と呼ばれて、遠藤政次郎氏が経営していた。大沼さんは人事院に務めていた時から遠藤氏から「文化学園の経営を任せたい」という要請が再三にわたりあった。並木学園の理事会などには遠藤氏の要望もあって出席して必要なアドバイスなどを出していた。
杉並学園も51年に復興を成し遂げ53年には第二校舎も完成し55年には新宿の名物校舎である円形の本校舎の建設に入り、戦前に倍する服装教育の殿堂作りが始まった。56年は復興10周年の記念の年になった。
遠藤氏は東京にいると組合との交渉などあり体に良くないと12月には伊東に戻った。4日に遠藤氏から大沼さんは伊東に呼び出されて杉並学園の後事を託された。ぽつぽつと語り訴える遠藤氏の言葉に「私の決意は決まった」と大沼さんは話した。大沼さんは「
右せんか、左せんか場面に直面して、遠藤さんの人間的な叫びを私として、住み慣れた官界を去らしめた」
遠藤さんの叫び声に官界を去る
大沼さんは「何も知らない、何も知らないただなんとか信頼に報いなければならないという、決意を頼りに学院に身を置いた」58年の暮れも59年暮れも60年も6月には同じ状態だった。
夏季手当をめぐり労働争議の発生状態が出てきたが、遠藤氏は8月22日から4日間意識を回復することもなく午後8時に20人が見守る中で死去した。9月8日に新宿の校舎に帰った。
この4日間、大沼さんは着替えることもままならずに汗でベタベタの服のまま遠藤さんを東京に見送った。
金岡隆さんが10月31日の夕刻に死去した。11月1日の午前中に昔、新橋で「庵」という飲み屋をしていた長越容子さんから「金岡さんが昨日死んだ。残念ね」という電話が来た。
私より2歳年下の76歳である。コロナのために葬儀は身内だけで4日に行った。
長女の智香子さんによると棺には楽譜やネクタイ、早稲田大学グリークラブの楽しい思い出の詰まった品を納め応援歌の「紺碧の空」を流して送り出した。
胃の全摘手術をして2年の予告金岡君は2年前に検査で胃がんが見つかり全摘手術をした。そのあとでもお酒は今まで通り飲み、早稲田大学のグリークラブの活動は続けてきた。我々の親しい連中の集まりの時には「放射線の手術で頭は丸坊主になっている。かつらをつけているのでわからないでしょうが」と話していた。
親しかった名井博明さんは「金岡さんからメールが来て歩くことができなくて車いすでないと外に出られない」という。
しばらく会っていない間に容態は悪くなっていた。長越さんからも「金岡さんが車いすでなくては出られなくて調子が悪いようよ」と話してくれた。
今年春に都内の世田谷で開かれた早稲田のグリーの演奏会に行ったら金岡君は出ていたが特別に椅子に座っていた。体調が悪いのだなあ、と思った。
富山県の名門富山中部高校出身でゼネコンの佐藤工業の幹部で出世する
金岡さんが佐藤工業の広報部長、秘書室長の時代は担当していなかった。朝日新聞の財界担当の時にゼネコンもカバーしたのでそれで親しくなった。「庵」の店で日本工業新聞の井上晴夫君に紹介されたのがきっかけである。井上君はゼネコンに食い込んでおり、この店にいろいろな人を連れてきては紹介してくれた。
このお店で28年前の5月の気候の良いときに井上君が金岡君に「ママさんも一緒に9月の風の盆の時期に富山に行こうよ」
と提案した。酒を飲んでの話でもあり、実現するかどうかわからなかった。
ところがしばらくして金岡君が8月31日8:45 ANAで羽田発小松行きの切符を取ってくれた。帰りは9月2日19:50富山空港発羽田着である。さすがに秘書室長をしているので手際がいい。メンバーは庵のママさん、講談社の今鉾さん、田中さん、日本
工業の井上さん、金岡さんと私の6人である。
最初の見学地は石川県にある北陸電力の志賀原発である。富山駅前のホテルに泊まり、県内をくまなく回った。金岡さんの親しい人が多くいるので氷見の大西家や富山の菅原家のエンジュマートなども見学した。
9月1日に風の盆の見学だが、福島家の座敷おわらに案内された。座敷で踊るのだ。黒部の黒四の見学では一般の人が見られないところまで案内してくれた。さらに名門の金岡家の生家も母親を紹介していただいて話を聞いた。
この旅で富山についていろいろなことがわかり、そのあとで金岡君の紹介で「富山ファン倶楽部」に入り、前の知事の石井氏などとも知り合った。
「いおり」の文集にグリーをめぐる縁を書く
長越さんの「庵」が開店10周年の91年3月に「記念誌集」と題して「いおり」を出版した。閉店する25周年まで10号を出した。この「いおり」の7号(02年1月)で金岡君は「庵とグリーをめぐる縁」と題して次の文を書いている。
「18年前に初めて庵に連れてきてくれたのは日本工業新聞の井上晴夫さんであるが、その井上さんが同じ頃に朝日新聞の阿部和義さんを引き合わせてくれた。阿部さんは建設省記者クラブに所属していたが、私が広報を担当した時期には既にほかのクラブに移っており、財界担当の大物記者として勇名をはせていた。怖そうな顔に似合わずに、人情が厚く、心憎い気配りができる人である。私が社長秘書に移つた時、自前で一席設けてくれた上に、朝日の社旗を立てたハイヤーを用意して『これで帰ってください』といい、自分はどうするかといえば『電車で帰る』のだという。
阿部さんの意外な点がいろいろあるが、日比谷高校時代にラクビ―に青春を燃やしたことがある。しかも東京都代表で全国大会に出場している。私たちのグリーの学年指揮者は丸山君である。丸山君も日比谷高校時代にラクビ―をやっており、一緒に活動していた、という」
丸山君が金岡君と一緒にグリーをしていることから金岡君の応援に力が入った。金岡君とは銀座の料理屋の「あきしの」で年に2,3回飲む会がある。この会には佐藤工業が倒産した時の管財人だった梶谷剛弁護士や金岡君の友人の公認会計士、警察の幹部などが集まり、焼酎を飲んで息巻くのである。
金岡君は幹事役として酒の手配から勘定まで面倒を見てくれた。
湯島にフクロウを集めた「ふくろう亭」という店があり長越さんや名井さんなどと一緒に飲んだ。金岡君はフクロウを集めるのが趣味で海外に出かける時にはお土産にフクロウを頼まれた。家にもたくさんのフクロウがあった。
ゼネコンの広報OBとマスコミOBとで正月の1月と夏の7月に集まる「サロンド・ムッシュの会」でも始めて2年目から参加している。出席率は良く、このところ集まるとみんなに「体調がだんだん悪くなってきている」と話し放射線で頭が丸坊主だと嘆いていた。
書けばいくらでも材料があるが、本当に残念である。天国でグリーの歌を歌いフクロウ
と楽しんで遊んでください。さようなら。
(阿部和義)
李健煕(イ・ゴンヒ)サムソングループ会長 10月25日老衰のために死去。享年78歳。
三和シャッターで広報を務めていた宿谷さんは李と早稲田大学で一緒でよく李の話をしていた。一緒によく遊んだそうである。
土屋嶢(たかし)大垣共立銀行会長 11月4日急性呼吸不全のために死去した。享年74歳。
昨年まで26年間頭取を務め年中無休の店舗などを作った。新型コロナに感染して入院していた。
鹿島昭一・元鹿島社長 11月4日心不全のために死去。享年90歳。
鹿島家の御曹司として生まれ東京大学、ハーバード大学で建築を学び社長就任前は建築家としても活躍していた。夫人は輸入車のヤナセの娘で海外などにも一緒に行っていた。
昭一氏は奥さんの面倒は海外などでは部下に見させていた。部下は「わがままな夫人に手をやいていた」という声が多かった。
岡田祐介・東映グループ会長。11月18日急性大動脈解離で死去。享年71歳。
私の都立日比谷高校の後輩であり、朝日新聞の街風隆雄や日経の永野健二などと同期である。こうした仲間と付き合っていたようだ。私は祐介のオヤジの茂氏と良く付き合って、祐介のことを自慢していたことを思い出す。
大沼淳・前文化学園理事長 21日死去。享年92歳。
役人(人事院)から理事長になり59年もの間理事長を務めた。ファッション教育や私学の発展に尽力した。私立大学協
会の会長を務めた。高田賢三やコシノジュンコなどを育てた。
佐伯晋・朝日新聞元専務。11月24日老衰のために死去。享年89歳。
58年入社で編集担当の常務、専務を歴任した。上皇様の結婚に向けての動きを取材して、結婚前の上皇后美智子様や親族を単独取材した。
]]>ジャーナリストの中村芳平が中心になり作られた。この日は基調講演をスカイラークを創業した横川氏(現高倉町珈琲会長)と前日本フードサービス協会会長の菊池氏が当面に課題などについて講演した。5千円の会費ながら約50人が参加した。
]]>それによると21年4月24日・25日「テアトロ・ジ―リオ・ショウワ」で「魅惑の美女はデスゴッデス!」「ジャンニ・スキッキ」
21年6月25日・26日・27日「日生劇場」で「蝶々夫人」
21年9月10日・11日・12日「新国立劇場オペラパレス」で「清教徒」
22年1月29日・30日「東京文化会館大ホール」
2月5日「愛知県芸術劇場大ホール」で「イル・ドロヴァトーレ」
22年2月19日・20日「新宿文化センター大ホール」で「ミスター・シンデレラ」
この日の会見には渡辺理事長のほか郡愛子・日本オペラ協会総監督、折江忠道・藤原歌劇団総監督も出席した。
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10月4日新型コロナウイルスのためにパリ郊外の病院で死去。享年81歳。
新宿にある文化服装学院を卒業して1965年にパリに行きブティックを開き、高級既製服の草分けとして成功した。同じ文化服装学院での同窓生であるコシノジュンコとは親しかった。
森部一夫(もりべ・いつお)元ミツミ電機社長 9月25日急性胆嚢炎のために死去。享年88歳。
経済部に来て兜町を担当していた時にミツミ電機は仕手株として有名で話題になっていた。
井出孫六 作家 10月8日敗血症で死去。享年89歳。
東大を出て中央公論に入社した。独立して作家になって洋画家川上冬崖を主人公にした「アトラス伝説」で直木賞を受賞した。兄は三木内閣の官房長官だった一太郎、姉は評論家の丸岡秀子の秀才兄弟で長野県では有名だった。
林原健・元林原社長 10月13日急性心筋梗塞で死去。享年78歳。
1961年岡山市にあるバイオ関連企業の林原の社長に就任。天然の糖質のトレハロースの開発や抗がん剤インターフェロンの量産に成功し注目された。粉飾決算の発覚で2011年社長を辞任した。
稲葉清右衛門・ファナック創業者 10月2日老衰のために死去。享年95歳。
富士電機製造(現富士通)に入社して56年に国内の民間企業として初めて工作機械の頭脳として使われる数値制御(NC装置)の開発に成功した。72年に富士通ファナック(現ファナック)として独立して95年6月まで社長を務めた。同社の山梨工場は黄色の建物として有名だった。
私の九段中学の絵の大里光春先生が川崎市で稲葉氏の家の隣に住んでいて「夜中に庭で放尿する人が稲葉さんという豪快な人だ」と話していたことを覚えている。破天荒な人であった。
福神邦雄・元アルフレッサホールディングス社長 10月15日急性腎不全で死去。享年76歳。
旧アズウェルと旧福神の経営統合によりアルフレッサホールディングス設立に成功して医薬品卸では最大手になった。
奥谷さんは親しい経済人や政治家に2か月に1回のペースで4ページほどの冊子を送ってきた。奥谷さんは歯に衣を着せない厳しい調子で書いてきた。
「世相を一刀両断」ということだ。
小泉純一郎・元首相や吉永みち子、三木谷浩史、宇都宮健児、宮城まり子さんなどの対談が出ている。本の最初の方に「終刊を惜しむ」ということで朝日新聞のOBの早房長治氏など30人が名を連ねている。
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太郎 今年の9月までにアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーンと相次いでイスラエルが国交を回復したが、どうしてここにきて急に仲が良くなったの?
阿部 イスラエルは諜報機関の「モサド」などのトップが湾岸諸国と秘密裏に高官と接触をしてきた。ネタニエフ首相などももちろんいろいろなルートで交渉をしてきた。そうした地盤ができているところに米国のトランプ大統領が11月の大統領選挙のためにひと
押しした。
このほかにイスラエルや湾岸国にとってはイランの脅威が大きくなってきている。核の脅威だけではなく民兵などがアラブ諸国に武力で進出しているという情報もある。イスラエルとアラブ諸国は1948年のイスラエルの建国以来敵対関係で来た。ここにきてイ
ランが敵になってきたのでそれを防ぐためには敵の敵は味方という論理で結びついたという面もあるね。
太郎 トランプ大統領が選挙で忙しいのになんでイスラエルと中東の国のためにこうした外交交渉をしたの?
阿部 今回の大統領選で苦戦が伝えられているトランプ大統領は人気を回復するためにイスラエルとアラブ諸国との国交回復に全力を挙げ実現した。米国ではキリスト教福音派が選挙民の4分の1を占めているといわれている。この層は親イスラエルの傾向が強いので
、選挙で票をとるにはイスラエルのために役立つことをしなければだめだ。そのためにはアラブ諸国とイスラエルの国交回復するのが一番だ。
トランプ大統領の娘婿のクシュナー上級顧問がこの交渉に一肌脱いている。クシュナー上級顧問はユダヤ人であり、イスラエルとの関係は深い。トランプ大統領の信頼も厚くイスラエルの駐米大使館をテルアビブからエルサレムに移すことを決めたときもクシュナー氏が働いたといわれている。
太郎 米国の大統領選挙のための国交回復ということなのか。
阿部 一つのきっかけではあるが、なぜこの時期に相次いで国交回復したのかというのはトランプ大統領の力が強かったということだ。それにしてもいままでイスラエルとアラブ諸国はエジプト(79年)、ヨルダン(94年)が国交回復しただけなので、ここにきての2か国の国交回復は、米国のトランプ大統領の力が大きかったということだ。
太郎 国交回復でどんな良いことがあるの?
阿部 国と国が仲良くなって大使館を作ったり、直行便の就航などができれば観光などにも良い影響が出る。このほかでは医療、ビジネス、技術、教育、治安など幅広く協力関係ができる。バーレーンなどは人口はイスラエルの5分の1で小さいが、国交回復するとい
うことがいろいろな面で実績が出てくるだろう。日本と北朝鮮のように国交回復してないと友好関係が進まない。
太郎この国交回復が日本への影響はあるの?
阿部 イスラエルとアラブ諸国が仲良くなり経済でも政治でもよくなれば、日本にとっても歓迎すべきことだ。いいことばかりでなく心配なことはパレスチナが孤立してしまうことだ。今回のことでもパレスチナは「アラブの大義」は失われた、といっている。500万人のパレスチナの人たちとイスラエルとの関係が悪くなることだけが心配だ。
東大の2年までのクラスは経済学部と法学部が一緒で、フランス語を取ったので13ルームだった。この会は2か月に1回の割合で「13会」を開いている。9月の中旬に幹事の村田君から「相原君から馬場義宣君が死んだ、といってきた。7月の時の通知で『神経
内分泌腫瘍で抗がん剤で治療中で欠席する』という連絡があり、この病気で死んだと思われる」という連絡が入った。
馬場君は法学部で私は経済学部ということもありそれほど親しくはないが、検事になり、父親の検事総長になった義統の後を継ぐのではないか、と思った。この知らせがあった時にたまたま読売新聞社会部からノンフィクション作家になった本田氏の「不当逮捕」(講談社文庫)を読んでいた。この本では読売新聞の社会部記者の特ダネ記者の立松和博が東京高等検察庁に逮捕された。
昭和30年初めの売春防止法をめぐり、読売が二人の代議士が贈収賄で逮捕されると一面で報じた。これに怒った高等検察庁が情報源を探すために立松記者を逮捕した。
この背景には検察庁の馬場派と岸本義広派の暗闘があり、馬場派の河井信太郎検事がネタもとだ、と読んで岸本派は逮捕に踏み切った。立松記者は最後まで取材源を明かさなかったが、読売新聞側が二人の議員に迷惑をかけたと全面謝罪して終わった。立松記者はこ
れがもとで城南支局長に飛ばされて不遇のうちに死んだ。
この本は講談社のノンフィクション賞を受賞し、本田記者の名を高めた。
馬場氏は検事総長になったが岸本氏は大阪から衆院選に立候補し当選したが選挙違反でたくさんの運動員が逮捕されて、岸本氏は2回目で落選した。34年前に出版された本だが今でも読みごたえがある。
神近さんが長崎県旧西彼杵町の職員の時にオランダ村を開園した。私は朝日新聞時代に長崎にいたのでこの事業に関心を持ち神近氏にインタビューをした。自信満々で成功した。しかし、そのあとのハウステンボスではバブルがはじけたこともあり、失敗して00年に社長を辞任した。
塩飽二郎氏 元農林水産審議官 8月30日死去。享年87歳。
農林省では国際畑を歩んだ。私の高校の友人の大河原新太郎さんが塩飽さんと親しくして釣りの仲間であった。
葬儀はコロナの時代ということもあり30人ほどしか来なかった。
ジュネーブで同じ時期にいた大蔵省出身の大野功統(よしのり)元防衛庁長官、通産省出身の黒田真・元三菱商事副社長などが参列した。
西川善文・元三井住友銀行頭取、日本郵政初代社長。9月11日死去。享年82歳。
西川氏は磯田一郎・頭取や樋口広太郎・副頭取に重用されて安宅産業の処理などに携わった。磯田氏がイトマン事件で当時の河村良彦社長に引きずられて不良資産を作り始めたときに西川氏が磯田氏を引きずり下ろした。その辺のいきさつについては自ら書いた「ラストバンカー 西川善文回顧録」(講談社)に出ている。
しかし、西川氏は小泉内閣の時、竹中平蔵総務相の推薦で日本郵政の社長になったことで銀行からの信用も失った、民主党政権になり斎藤次郎氏に交代させられて、郵政の方からもやめさせられることになり、最後はみじめであった。
アルフォンス・デーケン氏 カソリック司祭、上智大学名誉教授
9月6日肺炎で死去。享年88歳。
死をタブー視する状況に対して「死への準備教育」を提唱して賛同した市民により「生と死を考える会」を作った。私も長男の裕太が突然死したことからこの会に誘われて参加して心の不安を鎮められた。
楠兼敬(くすのき・かねよし)元トヨタ自動車副社長、元日野自動車会長
9月16日腎不全のために死去。享年97歳。
村山利雄・元日立造船社長
9月24日急性肺炎のため死去。享年100歳。
永田敬生社長が日立造船の基盤を作ったが、そのあとを継いだ。
川村二郎・元週刊朝日編集長
9月29日肺がんのために死去。享年78歳。
川村氏は私の1年先輩で、最初の任地は大分支局だった。私は長崎支局だったので川村氏の話はいろいろ入ってきた。赤いフェアレディの車で取材先を回って派手なことが大分中で評判になった。そのあと出版に行き週刊朝日で活躍した。現在、月刊誌「リベラルタイム」で「川村二郎の日本人の矜持」を連載していた。11月号には「休載です。次号をお楽しみに」と書かれていた。