渡さんはキャノンの御手洗・経団連会長と親しく、ゴルフは安倍総理と一緒にプレーして、安倍総理から「御手洗さんや渡さんは歳に似合わずに飛ばすのでびっくりすることが多かった」と経団連の年頭のあいさつで披露されていた。
御手洗さんより若いだけにその死を残念がる経済人は多い。
新妻義輔(にいずま・よしすけ)元朝日新聞常勤監査役。元朝日新聞大阪、東京本社編集局長 2月7日死去。享年78歳。
大阪社会部の記者として活躍した。
]]>この学園の理事長、校長などを長年務めてきた
大沼淳さん(おおぬま・すなお・92)が年末のあわただしい中を身内だけでひっそりとあの世に旅立った。戦後のがれきの中から日本のファッションを売り物にした学園を世界中に認めさせてきた。
自らは表に出ないようにして「学校経営にはスターはいらない」を職員に徹底させて経営を引き締めてきた。
役人から学校経営に転身
大沼さんは長野県の北部にある野沢市に生まれ、旧制飯山中(現県立飯山北高校)を卒業した後、海軍兵学校76期として入学した。2年間勉学に励んだ後、終戦になり「どうするか?」ということになり偶然、図書館に人事院の事務官の採用試験の応募があり、試験を受けることになった。
大沼さんは「今と違って軍関係の学校に行っていたものには狭き門だった」という。9人兄弟という中で、生活も苦しく、何はともあれ試験を受けてみようということになった。
外地から引き上げてきた年配の人や学校を出たばかりの秀才などはおり、「合格はとても無理だ」と思っていた。そうした狭き門だったが行政職と専門職の二つの事務官に合格した。
赤城・元農相にかわいがられる
人事院の事務官として働き始めた。
日光市にある田母沢の御用邸に臨時に開設された研修所に集合することになった。200人前後の職員が集まり1班20人前後で12班で研修した。東大、東工大などの官学だけではなく早稲田、慶応など、私学組まで様々だった。そうした中で3か月の研修を終
えて東京・霞が関の人事院に勤務することになった。
母や兄が教師だったこともあって偶然だが、戦後の教員の人事制度を再構築する責任者になった。
人事院の担当者として日教組、文部省、国会と3社と連携しつつ、新制度をまとめ上げて現在の教員、人事制度を確立した。
こうした交渉の中で国会で文教委員をしていた自民党の川島正次郎氏、赤城宗徳氏、坂田道太氏、竹尾弐氏などと親しくなった。野党では日教組出身の岡三郎、太原亨、宮之原貞光、辻原弘市などとも親しくなり、国立大学協会会長の時にはこの人脈が役立った。
赤城宗徳議員には人事院事務官の時に2回り歳(辰年、24歳)の上の赤城氏が学校の看護師の年給がないことを問題として政府に運動した獲得した時からの縁である。その時に「風来花自笑」の書を送ってくれた。今でも大沼家の玄関の一番良いところに飾ってある。
赤城氏は「どんな逆境が来たとしてもそうしたことは長くはない。どんなに厳しい冬でも暖かい春は必ず来る」という意味をこの5文字に託している、という。
私的なことになるが、私が朝日新聞経済部で農林省を担当した時の大臣は赤城氏であった。歴代の大臣で赤城氏ほど評判の良い農林大臣はいなかった。
大沼さんが人事院に入院した後、どうなるか全くわからない時に何かと面倒を見てくれたのが赤城氏であった。赤城氏は茨城県選出の衆院議員だった。大沼さんは村風士然としてあちこちの流れにとらわれなかった。特に当時、教員の年金問題が宙に浮いていると
きに赤城氏に相談して、文部省や大蔵省と折衝した。応援団としていわゆる文教族の坂田
氏や宮之原氏などがついてくれた。
遠藤氏から文化学園を任される
文化服装学園は並木学園と呼ばれて、遠藤政次郎氏が経営していた。大沼さんは人事院に務めていた時から遠藤氏から「文化学園の経営を任せたい」という要請が再三にわたりあった。並木学園の理事会などには遠藤氏の要望もあって出席して必要なアドバイスなどを出していた。
杉並学園も51年に復興を成し遂げ53年には第二校舎も完成し55年には新宿の名物校舎である円形の本校舎の建設に入り、戦前に倍する服装教育の殿堂作りが始まった。56年は復興10周年の記念の年になった。
遠藤氏は東京にいると組合との交渉などあり体に良くないと12月には伊東に戻った。4日に遠藤氏から大沼さんは伊東に呼び出されて杉並学園の後事を託された。ぽつぽつと語り訴える遠藤氏の言葉に「私の決意は決まった」と大沼さんは話した。大沼さんは「
右せんか、左せんか場面に直面して、遠藤さんの人間的な叫びを私として、住み慣れた官界を去らしめた」
遠藤さんの叫び声に官界を去る
大沼さんは「何も知らない、何も知らないただなんとか信頼に報いなければならないという、決意を頼りに学院に身を置いた」58年の暮れも59年暮れも60年も6月には同じ状態だった。
夏季手当をめぐり労働争議の発生状態が出てきたが、遠藤氏は8月22日から4日間意識を回復することもなく午後8時に20人が見守る中で死去した。9月8日に新宿の校舎に帰った。
この4日間、大沼さんは着替えることもままならずに汗でベタベタの服のまま遠藤さんを東京に見送った。
金岡隆さんが10月31日の夕刻に死去した。11月1日の午前中に昔、新橋で「庵」という飲み屋をしていた長越容子さんから「金岡さんが昨日死んだ。残念ね」という電話が来た。
私より2歳年下の76歳である。コロナのために葬儀は身内だけで4日に行った。
長女の智香子さんによると棺には楽譜やネクタイ、早稲田大学グリークラブの楽しい思い出の詰まった品を納め応援歌の「紺碧の空」を流して送り出した。
胃の全摘手術をして2年の予告金岡君は2年前に検査で胃がんが見つかり全摘手術をした。そのあとでもお酒は今まで通り飲み、早稲田大学のグリークラブの活動は続けてきた。我々の親しい連中の集まりの時には「放射線の手術で頭は丸坊主になっている。かつらをつけているのでわからないでしょうが」と話していた。
親しかった名井博明さんは「金岡さんからメールが来て歩くことができなくて車いすでないと外に出られない」という。
しばらく会っていない間に容態は悪くなっていた。長越さんからも「金岡さんが車いすでなくては出られなくて調子が悪いようよ」と話してくれた。
今年春に都内の世田谷で開かれた早稲田のグリーの演奏会に行ったら金岡君は出ていたが特別に椅子に座っていた。体調が悪いのだなあ、と思った。
富山県の名門富山中部高校出身でゼネコンの佐藤工業の幹部で出世する
金岡さんが佐藤工業の広報部長、秘書室長の時代は担当していなかった。朝日新聞の財界担当の時にゼネコンもカバーしたのでそれで親しくなった。「庵」の店で日本工業新聞の井上晴夫君に紹介されたのがきっかけである。井上君はゼネコンに食い込んでおり、この店にいろいろな人を連れてきては紹介してくれた。
このお店で28年前の5月の気候の良いときに井上君が金岡君に「ママさんも一緒に9月の風の盆の時期に富山に行こうよ」
と提案した。酒を飲んでの話でもあり、実現するかどうかわからなかった。
ところがしばらくして金岡君が8月31日8:45 ANAで羽田発小松行きの切符を取ってくれた。帰りは9月2日19:50富山空港発羽田着である。さすがに秘書室長をしているので手際がいい。メンバーは庵のママさん、講談社の今鉾さん、田中さん、日本
工業の井上さん、金岡さんと私の6人である。
最初の見学地は石川県にある北陸電力の志賀原発である。富山駅前のホテルに泊まり、県内をくまなく回った。金岡さんの親しい人が多くいるので氷見の大西家や富山の菅原家のエンジュマートなども見学した。
9月1日に風の盆の見学だが、福島家の座敷おわらに案内された。座敷で踊るのだ。黒部の黒四の見学では一般の人が見られないところまで案内してくれた。さらに名門の金岡家の生家も母親を紹介していただいて話を聞いた。
この旅で富山についていろいろなことがわかり、そのあとで金岡君の紹介で「富山ファン倶楽部」に入り、前の知事の石井氏などとも知り合った。
「いおり」の文集にグリーをめぐる縁を書く
長越さんの「庵」が開店10周年の91年3月に「記念誌集」と題して「いおり」を出版した。閉店する25周年まで10号を出した。この「いおり」の7号(02年1月)で金岡君は「庵とグリーをめぐる縁」と題して次の文を書いている。
「18年前に初めて庵に連れてきてくれたのは日本工業新聞の井上晴夫さんであるが、その井上さんが同じ頃に朝日新聞の阿部和義さんを引き合わせてくれた。阿部さんは建設省記者クラブに所属していたが、私が広報を担当した時期には既にほかのクラブに移っており、財界担当の大物記者として勇名をはせていた。怖そうな顔に似合わずに、人情が厚く、心憎い気配りができる人である。私が社長秘書に移つた時、自前で一席設けてくれた上に、朝日の社旗を立てたハイヤーを用意して『これで帰ってください』といい、自分はどうするかといえば『電車で帰る』のだという。
阿部さんの意外な点がいろいろあるが、日比谷高校時代にラクビ―に青春を燃やしたことがある。しかも東京都代表で全国大会に出場している。私たちのグリーの学年指揮者は丸山君である。丸山君も日比谷高校時代にラクビ―をやっており、一緒に活動していた、という」
丸山君が金岡君と一緒にグリーをしていることから金岡君の応援に力が入った。金岡君とは銀座の料理屋の「あきしの」で年に2,3回飲む会がある。この会には佐藤工業が倒産した時の管財人だった梶谷剛弁護士や金岡君の友人の公認会計士、警察の幹部などが集まり、焼酎を飲んで息巻くのである。
金岡君は幹事役として酒の手配から勘定まで面倒を見てくれた。
湯島にフクロウを集めた「ふくろう亭」という店があり長越さんや名井さんなどと一緒に飲んだ。金岡君はフクロウを集めるのが趣味で海外に出かける時にはお土産にフクロウを頼まれた。家にもたくさんのフクロウがあった。
ゼネコンの広報OBとマスコミOBとで正月の1月と夏の7月に集まる「サロンド・ムッシュの会」でも始めて2年目から参加している。出席率は良く、このところ集まるとみんなに「体調がだんだん悪くなってきている」と話し放射線で頭が丸坊主だと嘆いていた。
書けばいくらでも材料があるが、本当に残念である。天国でグリーの歌を歌いフクロウ
と楽しんで遊んでください。さようなら。
(阿部和義)
李健煕(イ・ゴンヒ)サムソングループ会長 10月25日老衰のために死去。享年78歳。
三和シャッターで広報を務めていた宿谷さんは李と早稲田大学で一緒でよく李の話をしていた。一緒によく遊んだそうである。
土屋嶢(たかし)大垣共立銀行会長 11月4日急性呼吸不全のために死去した。享年74歳。
昨年まで26年間頭取を務め年中無休の店舗などを作った。新型コロナに感染して入院していた。
鹿島昭一・元鹿島社長 11月4日心不全のために死去。享年90歳。
鹿島家の御曹司として生まれ東京大学、ハーバード大学で建築を学び社長就任前は建築家としても活躍していた。夫人は輸入車のヤナセの娘で海外などにも一緒に行っていた。
昭一氏は奥さんの面倒は海外などでは部下に見させていた。部下は「わがままな夫人に手をやいていた」という声が多かった。
岡田祐介・東映グループ会長。11月18日急性大動脈解離で死去。享年71歳。
私の都立日比谷高校の後輩であり、朝日新聞の街風隆雄や日経の永野健二などと同期である。こうした仲間と付き合っていたようだ。私は祐介のオヤジの茂氏と良く付き合って、祐介のことを自慢していたことを思い出す。
大沼淳・前文化学園理事長 21日死去。享年92歳。
役人(人事院)から理事長になり59年もの間理事長を務めた。ファッション教育や私学の発展に尽力した。私立大学協
会の会長を務めた。高田賢三やコシノジュンコなどを育てた。
佐伯晋・朝日新聞元専務。11月24日老衰のために死去。享年89歳。
58年入社で編集担当の常務、専務を歴任した。上皇様の結婚に向けての動きを取材して、結婚前の上皇后美智子様や親族を単独取材した。
]]>ジャーナリストの中村芳平が中心になり作られた。この日は基調講演をスカイラークを創業した横川氏(現高倉町珈琲会長)と前日本フードサービス協会会長の菊池氏が当面に課題などについて講演した。5千円の会費ながら約50人が参加した。
]]>それによると21年4月24日・25日「テアトロ・ジ―リオ・ショウワ」で「魅惑の美女はデスゴッデス!」「ジャンニ・スキッキ」
21年6月25日・26日・27日「日生劇場」で「蝶々夫人」
21年9月10日・11日・12日「新国立劇場オペラパレス」で「清教徒」
22年1月29日・30日「東京文化会館大ホール」
2月5日「愛知県芸術劇場大ホール」で「イル・ドロヴァトーレ」
22年2月19日・20日「新宿文化センター大ホール」で「ミスター・シンデレラ」
この日の会見には渡辺理事長のほか郡愛子・日本オペラ協会総監督、折江忠道・藤原歌劇団総監督も出席した。
]]>
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10月4日新型コロナウイルスのためにパリ郊外の病院で死去。享年81歳。
新宿にある文化服装学院を卒業して1965年にパリに行きブティックを開き、高級既製服の草分けとして成功した。同じ文化服装学院での同窓生であるコシノジュンコとは親しかった。
森部一夫(もりべ・いつお)元ミツミ電機社長 9月25日急性胆嚢炎のために死去。享年88歳。
経済部に来て兜町を担当していた時にミツミ電機は仕手株として有名で話題になっていた。
井出孫六 作家 10月8日敗血症で死去。享年89歳。
東大を出て中央公論に入社した。独立して作家になって洋画家川上冬崖を主人公にした「アトラス伝説」で直木賞を受賞した。兄は三木内閣の官房長官だった一太郎、姉は評論家の丸岡秀子の秀才兄弟で長野県では有名だった。
林原健・元林原社長 10月13日急性心筋梗塞で死去。享年78歳。
1961年岡山市にあるバイオ関連企業の林原の社長に就任。天然の糖質のトレハロースの開発や抗がん剤インターフェロンの量産に成功し注目された。粉飾決算の発覚で2011年社長を辞任した。
稲葉清右衛門・ファナック創業者 10月2日老衰のために死去。享年95歳。
富士電機製造(現富士通)に入社して56年に国内の民間企業として初めて工作機械の頭脳として使われる数値制御(NC装置)の開発に成功した。72年に富士通ファナック(現ファナック)として独立して95年6月まで社長を務めた。同社の山梨工場は黄色の建物として有名だった。
私の九段中学の絵の大里光春先生が川崎市で稲葉氏の家の隣に住んでいて「夜中に庭で放尿する人が稲葉さんという豪快な人だ」と話していたことを覚えている。破天荒な人であった。
福神邦雄・元アルフレッサホールディングス社長 10月15日急性腎不全で死去。享年76歳。
旧アズウェルと旧福神の経営統合によりアルフレッサホールディングス設立に成功して医薬品卸では最大手になった。
奥谷さんは親しい経済人や政治家に2か月に1回のペースで4ページほどの冊子を送ってきた。奥谷さんは歯に衣を着せない厳しい調子で書いてきた。
「世相を一刀両断」ということだ。
小泉純一郎・元首相や吉永みち子、三木谷浩史、宇都宮健児、宮城まり子さんなどの対談が出ている。本の最初の方に「終刊を惜しむ」ということで朝日新聞のOBの早房長治氏など30人が名を連ねている。
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太郎 今年の9月までにアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーンと相次いでイスラエルが国交を回復したが、どうしてここにきて急に仲が良くなったの?
阿部 イスラエルは諜報機関の「モサド」などのトップが湾岸諸国と秘密裏に高官と接触をしてきた。ネタニエフ首相などももちろんいろいろなルートで交渉をしてきた。そうした地盤ができているところに米国のトランプ大統領が11月の大統領選挙のためにひと
押しした。
このほかにイスラエルや湾岸国にとってはイランの脅威が大きくなってきている。核の脅威だけではなく民兵などがアラブ諸国に武力で進出しているという情報もある。イスラエルとアラブ諸国は1948年のイスラエルの建国以来敵対関係で来た。ここにきてイ
ランが敵になってきたのでそれを防ぐためには敵の敵は味方という論理で結びついたという面もあるね。
太郎 トランプ大統領が選挙で忙しいのになんでイスラエルと中東の国のためにこうした外交交渉をしたの?
阿部 今回の大統領選で苦戦が伝えられているトランプ大統領は人気を回復するためにイスラエルとアラブ諸国との国交回復に全力を挙げ実現した。米国ではキリスト教福音派が選挙民の4分の1を占めているといわれている。この層は親イスラエルの傾向が強いので
、選挙で票をとるにはイスラエルのために役立つことをしなければだめだ。そのためにはアラブ諸国とイスラエルの国交回復するのが一番だ。
トランプ大統領の娘婿のクシュナー上級顧問がこの交渉に一肌脱いている。クシュナー上級顧問はユダヤ人であり、イスラエルとの関係は深い。トランプ大統領の信頼も厚くイスラエルの駐米大使館をテルアビブからエルサレムに移すことを決めたときもクシュナー氏が働いたといわれている。
太郎 米国の大統領選挙のための国交回復ということなのか。
阿部 一つのきっかけではあるが、なぜこの時期に相次いで国交回復したのかというのはトランプ大統領の力が強かったということだ。それにしてもいままでイスラエルとアラブ諸国はエジプト(79年)、ヨルダン(94年)が国交回復しただけなので、ここにきての2か国の国交回復は、米国のトランプ大統領の力が大きかったということだ。
太郎 国交回復でどんな良いことがあるの?
阿部 国と国が仲良くなって大使館を作ったり、直行便の就航などができれば観光などにも良い影響が出る。このほかでは医療、ビジネス、技術、教育、治安など幅広く協力関係ができる。バーレーンなどは人口はイスラエルの5分の1で小さいが、国交回復するとい
うことがいろいろな面で実績が出てくるだろう。日本と北朝鮮のように国交回復してないと友好関係が進まない。
太郎この国交回復が日本への影響はあるの?
阿部 イスラエルとアラブ諸国が仲良くなり経済でも政治でもよくなれば、日本にとっても歓迎すべきことだ。いいことばかりでなく心配なことはパレスチナが孤立してしまうことだ。今回のことでもパレスチナは「アラブの大義」は失われた、といっている。500万人のパレスチナの人たちとイスラエルとの関係が悪くなることだけが心配だ。
東大の2年までのクラスは経済学部と法学部が一緒で、フランス語を取ったので13ルームだった。この会は2か月に1回の割合で「13会」を開いている。9月の中旬に幹事の村田君から「相原君から馬場義宣君が死んだ、といってきた。7月の時の通知で『神経
内分泌腫瘍で抗がん剤で治療中で欠席する』という連絡があり、この病気で死んだと思われる」という連絡が入った。
馬場君は法学部で私は経済学部ということもありそれほど親しくはないが、検事になり、父親の検事総長になった義統の後を継ぐのではないか、と思った。この知らせがあった時にたまたま読売新聞社会部からノンフィクション作家になった本田氏の「不当逮捕」(講談社文庫)を読んでいた。この本では読売新聞の社会部記者の特ダネ記者の立松和博が東京高等検察庁に逮捕された。
昭和30年初めの売春防止法をめぐり、読売が二人の代議士が贈収賄で逮捕されると一面で報じた。これに怒った高等検察庁が情報源を探すために立松記者を逮捕した。
この背景には検察庁の馬場派と岸本義広派の暗闘があり、馬場派の河井信太郎検事がネタもとだ、と読んで岸本派は逮捕に踏み切った。立松記者は最後まで取材源を明かさなかったが、読売新聞側が二人の議員に迷惑をかけたと全面謝罪して終わった。立松記者はこ
れがもとで城南支局長に飛ばされて不遇のうちに死んだ。
この本は講談社のノンフィクション賞を受賞し、本田記者の名を高めた。
馬場氏は検事総長になったが岸本氏は大阪から衆院選に立候補し当選したが選挙違反でたくさんの運動員が逮捕されて、岸本氏は2回目で落選した。34年前に出版された本だが今でも読みごたえがある。
神近さんが長崎県旧西彼杵町の職員の時にオランダ村を開園した。私は朝日新聞時代に長崎にいたのでこの事業に関心を持ち神近氏にインタビューをした。自信満々で成功した。しかし、そのあとのハウステンボスではバブルがはじけたこともあり、失敗して00年に社長を辞任した。
塩飽二郎氏 元農林水産審議官 8月30日死去。享年87歳。
農林省では国際畑を歩んだ。私の高校の友人の大河原新太郎さんが塩飽さんと親しくして釣りの仲間であった。
葬儀はコロナの時代ということもあり30人ほどしか来なかった。
ジュネーブで同じ時期にいた大蔵省出身の大野功統(よしのり)元防衛庁長官、通産省出身の黒田真・元三菱商事副社長などが参列した。
西川善文・元三井住友銀行頭取、日本郵政初代社長。9月11日死去。享年82歳。
西川氏は磯田一郎・頭取や樋口広太郎・副頭取に重用されて安宅産業の処理などに携わった。磯田氏がイトマン事件で当時の河村良彦社長に引きずられて不良資産を作り始めたときに西川氏が磯田氏を引きずり下ろした。その辺のいきさつについては自ら書いた「ラストバンカー 西川善文回顧録」(講談社)に出ている。
しかし、西川氏は小泉内閣の時、竹中平蔵総務相の推薦で日本郵政の社長になったことで銀行からの信用も失った、民主党政権になり斎藤次郎氏に交代させられて、郵政の方からもやめさせられることになり、最後はみじめであった。
アルフォンス・デーケン氏 カソリック司祭、上智大学名誉教授
9月6日肺炎で死去。享年88歳。
死をタブー視する状況に対して「死への準備教育」を提唱して賛同した市民により「生と死を考える会」を作った。私も長男の裕太が突然死したことからこの会に誘われて参加して心の不安を鎮められた。
楠兼敬(くすのき・かねよし)元トヨタ自動車副社長、元日野自動車会長
9月16日腎不全のために死去。享年97歳。
村山利雄・元日立造船社長
9月24日急性肺炎のため死去。享年100歳。
永田敬生社長が日立造船の基盤を作ったが、そのあとを継いだ。
川村二郎・元週刊朝日編集長
9月29日肺がんのために死去。享年78歳。
川村氏は私の1年先輩で、最初の任地は大分支局だった。私は長崎支局だったので川村氏の話はいろいろ入ってきた。赤いフェアレディの車で取材先を回って派手なことが大分中で評判になった。そのあと出版に行き週刊朝日で活躍した。現在、月刊誌「リベラルタイム」で「川村二郎の日本人の矜持」を連載していた。11月号には「休載です。次号をお楽しみに」と書かれていた。
住宅業界のご意見番
加藤憲一郎さんは20年2月26日に脳内出血で死去した。享年89歳。
加藤さんは住宅問題評論家として不動産業界や住宅業界で取材し意見を述べ見識を披露してきた。宮崎県出身で東京大学文学部を卒業した後、主婦の友社に入ったあと退職し、住宅新報社に入った。
出版局で「住宅画報」の編集長を務めた。その後、住宅問題の評論家として独立して活躍してきた。東急不動産の金指潔会長などとは親しく付き合ってきた。
金指会長が東急ホームの社長をした時からの関係であり、東急不動産のパーティーなどでは金指潔・会長が挨拶の時に「お忙しい中で長老の加藤さんまで来ていただきありがたいことです。
加藤さんも元気でこれからも活躍してくださいね」というほどであった。
REJAでは長い間、幹事を務めていただいた。長老としての今までの経験を若いジャーナリストや業界の人の参考にしたいと82歳の加藤さんに講演をしてもらおうと企画した。2013年9月にプレスセンターで「住宅産業の形成と発展」を第一回として14年3月の第四回の「これからの住宅産業の方向」までのテーマで話してもらった。
加藤さんも今まで書いた原稿や講演をまとめて要領よく話してくれた。加藤さんは「どれほど参考になったかわからないが、今までの勉強の成果を披露できたと思う」と話していた。
この講演の後、加藤さんはREJAの会合に出てこられなくなった。奥さんの洋子さんが8年前の12年4月に亡くなったこともあり心配していた。そうした中での突然の訃報にびっくりした。
ご冥福を祈ります。天国で洋子さんと仲良く楽しんでください。
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コロナの問題などで東京都の小池知事が毎日記者会見しているので目がそちらに向けられるが、区の動きにも注目する必要がある。千代田区は23区で一番カネを持っており約6万人の区民にコロナの支援金として12万円(毎月1万円)出す。(7月21日)石川区長がこの方針を出したのに対して区議会が「不正なマンションの購入してそれを隠すために支給するのではないか?マンション購入についての問題を解決してからだ」と反対しているが石川区長が支給を決断した。
マンションの問題はこれからも尾を引きそうだ。
新宿区も感染見舞金を一人10万円出す(7月17日)。区のばらまき合戦の様相を呈している。
この本を早く出版したいと家族の咲子夫人にお願いしたいところ「サンゴ事件でやめた夫なのでそうしたことは遠慮したい」と断られた。18年の3回忌が過ぎたときに秘書を務めた羽原清雅氏が頼んだところOKが出た。
追悼集の刊行委員会が作られて中江利忠・元社長や浜田隆・元専務、桑田弘一郎・元テレビ朝日社長などの長老の下に、羽原氏など若い政治部OBが集まり作業をした。朝日新聞の後輩43人と家族の3人の一柳社長への思い出が綴られている。政治部が長く政治部
長や編集局長など歴任したので政治部の出身者が多い。その中で経済部出身の浜田氏は「確かなリーダーシップ」という中で「31年前、一柳社長はいわゆるサンゴ事件で退任した。
あの時、ご本人にも申し上げたが、私はいまだに納得できていない」と書いた。
このほか論説主幹を務めた松山幸雄氏は「度胸のよい指揮官」と一柳社長の行動をほめている。
合併後の資産規模は1兆円を超え1兆1915億円と現在トップの三井不動産系の日本ビルファンド投資法人の1兆1675億円を超える。J=REITは三井不動産の岩沙弘道会長が不動産への資金導入が必要だと20年前に日本に創設した。
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金子尚志・元日本電気社長
8月8日老衰のために死去。享年86歳。
ワンマンの関本忠弘社長の後引き継ぎ4年半で西垣浩司氏にバトンタッチした。
砂原幸雄・元TBS会長
8月12日にがんのために死去。享年83歳。
TBSのプロデューサーがオウム真理教幹部に坂本堤弁護士の取材ビデオを見せた問題で引責辞任した磯崎洋三氏の後任の社長に就任した。
松井義雄・元読売新聞東京本社社長
8月13日肺炎のために死去。享年82歳。
経済部の記者として活躍した。
望月幸明・元山梨県知事
8月8日老衰のために死去。享年96歳。
1979年山梨県知事になり3期12年務めリニア新幹線の実験線の誘致に取り組んだ。
桂泰三・元シャープ副社長
8月8日副じん不全のために死去。享年90歳。
私が大阪経済部の時代に佐伯旭・社長の下で副社長を務めた。
斎藤盛也・三井不動産副社長
8月23日急性腎不全で死去。享年81歳。
渡哲也・映画俳優 8月10日死去。享年78歳。
NHKで渡哲也のしのぶドラマを30日午後4時過ぎにやった。渡が新聞記者から弁護士になって学校で校長を殺したという罪で逮捕された女性教諭を救う話には13年前のものだが涙が流れた。正義感あふれる弁護士役が似合っていた。
山崎正和・劇作家・文明評論家 8月19日悪性中皮腫のために死去。享年86歳。
サントリー文化財団などの芸術文化の振興に力を尽くした。
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7月9日 夜の街個別に休業要請
東京都協力金50万円で調整
この記事は私にとって興味がある。事務所が新宿にあるために歌舞伎町の夜の街でコロナが蔓延していることで新宿の街のイメージが日に日に悪くなっている。そうした時に小池知事がこうしたことをやってくれることに一安心した。
7月20日に外国人記者クラブで「日本水商売協会」の甲賀香織代表理事が記者会見をした時にも私は甲賀代表理事に「新宿に住んでいるので『小池知事が歌舞伎町の夜の街が蔓延の原因になっている』というのは街のイメージを悪くするので小池知事に抗議すべきではないか」という質問をした。甲賀代表理事は「小池さんは夜の街をコロナの感染源と決めつけている。困ったことであり私たちもこうしたことがないように改めてゆき小池知事に言うことは言いたい」と冷静に答えていた。50万円の調整金でコロナの蔓延が防げればこれに越したことはない。甲賀代表理事に頑張ってもらいたい。
このZOOMがコロナとともに時代の寵児になってきている。私は日本記者クラブにいて、コロナで講演会が中止になった時にWEBで配信するので準備するように言われて初めてこの言葉を聞いた。
WEBで流すのはZOOMだけではないのだろうが、私が利用しているのではこのやり方が多い。コロナで3密は避けられる中ではこのやり方が主流になってゆく。
「日本コーポレート・ガバナンス・ネットワーク」(牛島信理事長)という会がある。
企業の不正問題などをなくすためにどうしたらよいかを考えている組織で会社員やジャーナリスト、弁護士、公認会計士などで組織されている。理事長の牛島氏は有名な弁護士である。私は朝日新聞の時代から企業の不正問題についての取材をし、講演などしてきたのでこのネットワークについては関心があった。
3月18日に「『日産ゴーン事件』とコーポレートガバナンス」というテーマでジャーナリストの井上久男氏(56)が講演する知らせが来た。井上氏は朝日新聞の記者からフリーのジャーナリストになった。現役の時代も知っており、日産自動車については深く取材しているので早速申し込んだ。この会は会費6600円を払い込まないと出席できない
。人気のある講演ではすぐに満員になる。
会場は事務所のあるJR浜松町駅のそばにある世界貿易センタービルの中にある。この中の部屋であるので3密になる。コロナが蔓延しているときなので「大丈夫かな?」と心配していた。心配が的中して延期の知らせが来た。料金を納めているので払い戻しを受けた。
緊急事態宣言が撤回されて、6月後半に7月15日にこの講演会を再開するという知らせが来た。早速会費を納めた。コロナの心配があるので会場には井上氏と司会者がいるだけで、我々は「ZOOM」で聞くことになった。会費を納めたと同時に事務局から「ZOOM」のメールアドレスが届いた。午後4時からの開始なので30分前にパソコンの前に座り、開始を待っていた。「もう少し開始までお待ちください」という表示が出た。4時には大丈夫なのかなあ、という不安があった。
4時になると画面に司会者の荻野博司氏のマスクをかけた顔が出た。荻野氏も朝日新聞の後輩であり論説委員を務めて退社して現在は大学教授である。荻野氏が井上講師の紹介をして始まった。それによると九州大学を卒業した後、日本電気に務めて、そのあと朝日新聞に入った。社会人になってから新聞記者になる人は多い。朝日では名古屋本社が長くトヨタ自動車などの自動車取材をして40歳の時に独立した。こうしたケースは珍しい。
業界でも一番待遇の良い朝日を途中でやめるという記者はよほど自分の知識に自信がある。
井上氏も日産自動車とゴーンについては深く食い込んでいる。最初にゴーンの刑事事件の話を説明した。逮捕事実は金融証券取引法違反と特別背任の二つの容疑である。ゴーンがこのような不正をしてまで金を集めたかについては「犯罪の陰に女ありでリタ夫人と離婚してキャロルと結婚した、事が大きな要因になったのではないか」と話した。
ゴーンも99年から05年までは日産の改革者であったがそのあとの10年までがつまずきの時代だった、という。「権力に長くいると腐ってくる。ゴーンは周りにイエスマンを集め、社外取締役や監査役を選ぶときにはモノを言わない人を選べ」と指示していたという。こうした体制が海外のトンネル会社「ジーマー社」を作り金づくりに」励んでしま
った、と指摘した。
日産の役員についても一人に権力が集中しないように二人(西川、志賀)に競わせるよ
うにしたという。
1時間ほどした佳境に入った時に画面が消えてしまった。急いで元から初めて画面が戻った時には牛島理事長の井上氏へのお礼の場面だった。
しかし、この講演は井上氏の話ぶりがはっきりしてよくわかった。これからは自宅にいてこうした話を聞く時代になるのであろう。
聞くだけでなく自ら話す「日本不動産ジャーナリスト会議」の幹事会も「ZOOM」で行った。この会では久しぶりなので皆の顔を見られたが、私のパソコンでは顔が出なかった。仕方がないで女房のスマホで顔が出るようにした。
こうした苦労も孫の顔を見られるようになるならばうれしいことでもある。企業の広報関係の人もいろいろな苦労もするだろうが、時代とともにWEBで伝達することも主流になってゆくだろう。便利なこともあるがひと末の寂しさもある。
最後の社主である村山美知子が2020年3月3日に亡くなってからすぐに会社がとった手段である。この日の総会には
上野家の5代目の聖二氏(現在朝日新聞デジタル・イノベーション本部勤務)が「社主制度の廃止には反対である。渡辺社長はもう一度考え直してほしい」と述べたが、会社側は採決で廃止を決めた。
この会場には村山美知子さんに仕え現在はジャーナリストの樋田毅・氏(元朝日新聞記者)が出席して事の詳細をFACTA8月号に書いている。樋田氏は講談社から「最後の社主」という本を3月に出版している。
島野喜三・元シマノ社長 7月3日慢性心不全で死去。享年85歳。
シマノ創業者の3男として堺市で生まれ長兄、次兄の後、4代目の社長になった。シマノの国際化を進めて世界のシマノにした。
遠入昇・元鐘紡(現クラシエホールディングス副社長)虚血性心疾患で死去。享年98歳。
遠入さんがこの年まで生きているとは信じられなかった。我々が知っている遠入さんは東レにいてファッションを指揮していた。それを目につけた鐘紡の伊藤淳二社長がスカウトし当時は話題になった。
伊從寛(いより・ひろし)元公正取引委員会委員。 6月29日慢性腎不全のために死去。享年92歳。
経済で合併問題があると公取の見解を聞くために伊從さんに取材した。伊從さんは丁寧に答えてくれ、スポークスマンとしての役割を果たした。
上島重二・元三井物産社長 7月19日心不全のために死去。享年88歳。
日本経団連の副会長を務めていたが、ロシア領の国後島のディーゼル発電施設をめぐる不正入札事件で三井物産の会長と日本経団連の副会長を辞任した。
三浦守・元東急百貨店社長 老衰で死去。享年96歳。
東急グループの総師であった五島昇に仕えた。ゴルフが好きな昇に付き合うためにパタークラブだけでショートホールを回ったという逸話が残っている。
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76年10月に大阪経済部から東京経済部に3年ぶりに帰ってきた。大阪では機械クラ
ブに2年いて、そのあとは金融・財界を担当した。住友銀行、三和銀行、大和銀行などの
銀行と日本生命保険、住友生命保険、大同生命保険などを取材して東京の日銀クラブに変
わった。当時、住友銀行が安宅産業で巨額な損失を出して頭取が伊部恭之助から磯田一郎
に交代することが記者の大きな問題でありこの取材に追いまくられていた。
こうした報道合戦のさなかの寒い、77年1月17日の夕方に大阪の経済部の富岡隆夫
ダスク(後のAERA編集長。死去)から「あべちゃん、山下俊彦という取締役、知ってい
るか?」という電話がかかってきた。「山下さんがどうしたんですか?」というと「山下
が社長になるんだ。大阪の経済部はだれも山下のこと知らないんだ。あべちゃんなら知っ
ていると思って電話した。知っていることを教えてほしい」と話す。
そこで私は「なかなかの人物ですよ。エアコン事業部長の時に値上げを堂々と話したん
ですから。度胸がありますよ」と答えた。
山下さんは26人いた取締役の下から2番目で24人抜きで社長に選ばれた。この本によ
ると、さすがの度胸のある山下も1月10日に松下幸之助から「社長になってほしい。ど
や」と頼まれた。「先輩方がたくさんいるのにとても務められない」と断った。ところが
幸之助はあきらめない。山下の周辺にいる正治社長や谷村博蔵副社長などを通して社長就
任を執拗に頼んできた。さすがの山下もあきらめてOKした。その代わりに社長就任の記
者会見の時に「(松下幸之助)選んだ方にも責任があります」という名文句を言いはなっ
た。
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門を強化する構造計画を作ったのである。面白い人が松下にはたくさんいた。
]]>2020年6月の株主総会は異常な形で開かれた。コロナの感染予防ということで「できるだけ会場に来てくれるな」という予告と「お土産の用意はありません」という断りである。
6月25日に開かれたゼネコン大手の鹿島の株主総会に行った。会場は例年どうりに「ホテル イースト21東京」(江東区東陽町)である。10時からの開始に株主はわずか30人ぐらいで第二、第三には誰もいない。
昨年は200人ぐらいいたのに比べると寂しい限りだ。押味至一社長が議長になり報告事項、4つの決議事項を説明して質問を受け付けた。コロナ対策についての質問が4つほどあった。
押味議長などが説明して40分で終わった。コロナの感染の心配とお土産が出ないことが株主の少ない理由であろう。
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山田隆哉・元ダイハツ工業社長、元ジェイテクト会長
6月2日筋萎縮性側索硬化症(ALS)で死去。享年78歳。
トヨタ自動車取締役を経てダイハツ工業社長になり、08年光洋精工と豊田工機の合併
によるジェイテクトの設立に力を尽くして会長になった。
庄山悦彦・元日立製作所社長、元日本経団連副会長
6月5日すい臓がんのために死去。享年84歳
経団連の副会長の時に経団連の会長だったトヨタ自動車の奥田会長から「次の会長に頼む
4
」と再三いわれたが、断った。このために奥田会長はキャノンの御手洗富士夫会長を選ん
だ。
日立は日本経団連では歴代副会長しか務めなかったが、榊原会長の後に日立の中西宏明氏
が初めて就任した。庄山氏はこの中西氏の会長就任には反対しなかったようである。
鬼沢正(おにざわ・なおし)元三井建設(現三井住友建設)社長
6月9日老衰で死去。享年94歳。
三井不動産の広報室長を長く勤め、中興の祖である江戸英雄会長に忠勤を励んだ。三井
鉱山が斜陽になった時に江戸英雄氏が鬼沢さんを不動産にスカウトした。茨城県の出身と
いうことが二人が終生結ばれた縁になった。
太田哲夫・元日経新聞専務、元QUICK社長
6月13日心不全のために死去。享年87歳。
日経ビジネス編集長や東京本社編集局長を務めたが、新聞記者特有の偉ぶった態度があ
った。日経では社長以上の態度の大きさである、といわれた。
政府の緊急事態宣言によってコロナにかからないようにするためである。緊急事態宣言
が解除された5月28日からは再開された。クラブで待ち合わせをしたり、食事をしてい
た人にとっては朗報であった。
しかし、この間も記者クラブの本来の役割であるコロナについての記者会見はウェブに
よりライブで行ってきた。今まではクラブに来て講師の話を直接聞けたが、コロナの予防
ということでウェブを通しての会見になった。
このやり方は初めてで、最初はどうするのか迷った。聞きたい講演はクラブのホームペ
ージに載っているので事前に事務局に申し入れる。クラブ員でなくてはだめで、クラブの
登録番号や会社、資格、メールアドレスなどを登録して、OKになると、記者のメールア
ドレスに始まる1時間ぐらい前にズーム(ZOOM)のメールが送られてきて始まる。米
国のZOOM社は利用者の数が急増して4月に入り3億人を超えた、という。
講師と司会者の二人が画面に出て、質問はボタンを押して司会者に出し、それを講師
に伝える。
30分話して残りの30分で質問を受けつる。私的なことを言うと、軽井沢に行ってい
たのでこのやり方は都合が良かった。5月中にあった講演はほとんど聞いた。政府の専門
家会議の尾身茂・副座長が2月13日に最初にやり、5月29日の矢内廣ぴあ社長の「ラ
イブ・エンターテイメント産業への影響」まで25回やった。
経済記者OBからするとコロナについての病理や病院の問題、などが多くて経済的な話
題は5回の小林慶一郎・慶応大教授の「コロナウイルスの経済政策の在り方」18回の帝
国データバンクの赤間裕弥・東京支社情報部部長の倒産問題などで少なかった。
こうした中で5月27日(24回)に行われた「悪化する病院経営」について全日本病
院協会の猪口雄二会長が話した。病院経営状況緊急調査に基づいており、コロナの患者を
診療すると一般の患者は減るので赤字になる。そうしたことで国はコロナの診療報酬を3
倍にしたが「これでも病院の経営は改善されるかどうかわからない」という。改善策につ
いて聞かれた猪口会長も「ワクチンができるまではこうした状態が続いてゆくのではない
か」と答えていた。先は見えない。
ベングリオン空港では3月だけで5891便およそ120万人の人たちの出入りがキャン
セルされた。3月末までにさらにキャンセルされる便が増えた。イスラエル空港では直ち
に2千人の労働者を無給休暇にし、管理職は10%給与をカットした。
経済省によるとGDP(国民総生産)は119億ドル(約1兆3000億円)失うと試
算している。イスラエルの総生産の3・4%に当たり打撃は大きい。
イスラエルの企業はこうした事態になると従業員をリストラやレイオフする。そのため
に失業率は4%から26%にはね上がり、120万人が職を失った。政府は1年以上勤め
ていないと出さなかった失業保険を就職6か月以内でも認めることにしている。
テイメント産業への影響」についてライブによる講演をした。それによると「音楽コンサ
ート・演劇・ミュージカル・スポーツその他のイベントをライブ・エンターテイメント産
業と定義する」と年間の市場規模は2019年で9千億円になる(この10年で倍)。今
回のコロナによる被害は今年2月から来年の1月までに77%の6900億円が消失する
。
「今までにない大変なことであり、政府はぜひ支援してほしい。海外では音楽などは心
の産業として政府が支援を惜しまない」と話した。
作家の中村正軌(まさのり)
3月1日老衰のため死去。享年92歳。
日本航空の調達部長をしながら書いた「元首の謀叛(ぼうはん)」でデビューした。「
貧者の核弾道」「アリスの消えた日」などの国際小説を書いた。
三好俊吉・元日本鋼管(現JFE)社長
4月25日腹腔内出血のために死去。享年91歳。
歴代の社長では珍しい技術系の社長だった。前社長は実力者の山城彬成で、その指名も
あって就任しただけに影が薄かった。
善竹富太郎・大蔵流狂言師
4月30日コロナウイルス感染に伴う敗血症のために死去。享年40歳。
父親の狂言師の善竹十郎氏と勉強会で知り合った。息子に後を継いでほっとしていた時
に死んだので悲しみは深い。
岡本行夫・元首相補佐官・外交評論家
4月24日新型コロナウイルスによる肺炎のために死去。享年74歳。
友人の作家の北沢栄君が岡本氏の勉強会に入っていた関係で田町に行き、話を聞いたこ
とがあるが明快な話しぶりに好感を持っていた。あまりに早い死であった。
松田昌士(まさたけ)JR東日本社長
5月19日肝臓がんのために死去。享年84歳。
国鉄改革3人組の井出・元JR西日本社長、葛西・元JR東海社長とともに戦った一人
である。JR東日本を立て直した。高校時代の友人の大島利徳君(故人)や名井博明君が
親しく付き合っていたようである。私は面識はなかった。
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ジャック・ウェルチ元GE会長兼最高経営責任者
3月1日腎不全のために死去。享年84歳。
成長が期待できる事業に力を入れる「選択と集中」をモットーにGEを改革して、世界
優良企業に育てた。ウエルチさんの名前を聞くと日経新聞の特別編集委員だった長谷川洋
三さんを思い出す。長谷川さんはウエルチ氏の本を訳して出版して、出版記念会などでは
ウエルチ氏と英語で親しげに話していた。
竹本成徳・元日本生活協同組合連合会会長
4月1日病気のために死去。享年88歳。
竹本さんの娘さんのメゾソプラノ歌手の節子さんは三井不動産の広報部にいた西村秀和
さんの奥さんである。西村さんから竹本さんの出演するオペラなどの誘いがあり聞きに行
ったことも多かった。
桜井修・元住友信託銀行(現三井住友信託銀行)社長
3月30日、不整脈で死去。享年93歳。
私が大阪の経済部の時に大阪に本社があった住友信託銀行を取材した。当時は山本弘会
長、牧野耕二社長などが活躍していた。その頃、東京で活躍していたのが桜井さんだった
。大阪勤務はほどんとなく東京が長かったが、その頃から社長候補といわれていた。順調
に社長になった。
立石義雄・元オムロン社長、元京都商工会議所会頭
4月21日新型コロナ感染症で死去。享年80歳。
オムロンは創業者の立石一真氏の本「立石一真の研究」(かのう書房)を書いたので立
石一族についたは勉強し、親しくなっていた。私は東京にいて経済同友会の幹事をしてい
た次男の信雄さんと親しく付き合った。義雄さんとも社長時代には取材をした。京都商工
会議所の会頭を四期務めて三月に退任したばかりであった。関係者によると退任に伴う引
継ぎなどで忙しくしているうちにコロナに感染したようである。3月5日から4月21日
まで病院でコロナと闘ったが、最後は力尽きた。親族はお見舞いにもいけず、骨になって
から家族が受け取った。葬儀も夫人と子供4人で21日の午後にしめやかに行われた。一
族にとっては無念の別れであった。
山田敬蔵・マラソンランナー
4月2日老衰のため死去。享年92歳。
53年開かれたボストンマラソンで優勝して日本の国力を世界に示し、日本人に自信
を与えた。
久米明・俳優・声優
4月23日心不全のために死去。享年96歳。
一橋大を卒業した後、演劇集団を経てフリーになりテレビ、ラジオ、映画で活躍した
。2019年までバラエティー番組の「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーションを務めていた
勉強会でも「いつ終わるかわからない」
こうした動きに合わせるように日本記者クラブでも2月13日に政府の感染症対策の専
門委員会の副座長をしている尾身茂氏が「新型コロナウイルスについての我が国がとるべ
き対策(私案)」を発表した。そのあと川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長など6人が
4月1日までにそれなりの見識を披露した。出席した記者が知りたいことは「いつこの問
題が解決するのか?」である。岡部所長は「来年夏ごろまでは収まらないのではないか」
と答えていた。
日本記者クラブも4月1日からはコロナ対策として人数を最大80人に制限するととも
に、マスクの着用を義務付けた。座る間隔をあけてコロナに感染しないようにしている。
こうしたことをするのはクラブでも初めてである。
企業の広報担当者も在宅勤務になった人も多い。通勤電車でコロナにでも感染したら大
変だ、ということである。記者会見なども開かずにメールで見てもらうやり方が出てきた
。大和ハウス工業の松田英次・広報企画室東京広報グループ長は「公示地価の反響をメー
ルで各社に送ったが、途中で切れたりしてまだまだだ。しかし、これからはこうした広報
のやり方が増えてゆくだけにコロナ禍をきっかけにデジタル化を進めていきたい」と前向
きだ。
藤井氏によると東京など都市の変化に対して街路樹の管理が間違えている、という。強
剪定と植栽基盤不良で倒れやすくなっている。このままの状態が続くと東京などの街路樹
は温暖化の激化などに耐えられずに枯れる心配が出ている。予算を増やして街路樹の管理
をしっかりしないとこれからのヒートアイランドや温暖化に東京都の環境は悪くなる、と
警告している。
絹村和夫・元TBS(現TBSホールディングス)副社長
3月19日老衰で死去。享年90歳。
絹村さんは私が電波報道局にいたときにはスポークスマンで取材に行って話を聞いた。
城所賢一郎・元TBSテレビ副社長
3月14日すい臓がんのために死去。77歳。
城所さんも新聞記者などが取材に行き丁寧に応対してくれた。
原田和明・元三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)理事長
パーキンソン病のために死去。享年88歳。
原田さんは三菱銀行と統合した三和銀行の調査部次長だった。私が大阪経済部で銀行担
当の時に三和銀行が調査報告の会見に出てきた。原田さんがレクチャーをして明快な説明
をしてくれた。そのあと、東京でも三和銀行の調査報告で原田さんと会い親しみを感じた
。原田さんは九段高校(旧制市立一中)で私の九段中学校の恩師の秋山和義先生と同期だ
ったことも原田さんとの縁を感じていた。
宮城まり子さん ねむの木学園園長
3月21日死去。享年93歳。
宮城さんを東京中央ロータリーの講話をしてくれるように招いた。誰か忘れたがねむの
木学園に寄付してほしいというのでいくばくかの金を出した。そうした縁で宮城さんに頼
んだところ快く来てくれた。宮城さんは足腰が不自由で会場の帝国ホテルの人が苦労した
ことを思い出す。
鶴田卓彦・元日経新聞社長
3月13日心不全のために死去。享年92歳。
鶴田社長が日経子会社の役員の不正支出の問題や赤坂の飲み屋へ入り浸って碁を打った
りしていることを当時のベンチャー企業部長の大塚将司氏(元証券部次長)が株主総会で
追及して、解雇された。私は大塚氏とは財界クラブで一緒に働いたこともあり解雇された
大塚氏の支援に立ち上がった。励ます会などを開いて応援した。双方で訴訟を出して争っ
たが、最終的に大塚氏と鶴田氏は和解した。私も鶴田派の社員に恨まれたが、一方で「よ
く大塚君を応援してくれた」と励ましてくれた人もいた。
子の神田松之亟,鯉栄、あぐりなどが並んだ。松之亟が2月には伯山を襲名することが披
露された。
最後は朝日新聞のOBである轡田隆史さんが三本締めで締めた
高畑敬一・松下電器産業(現パナソニック)常務
2月8日老衰のため死去。享年90歳
高畑さんは私が46年前に大阪経済部で松下電器を担当した時には労働組合の委員長だ
った。当時は第一次石油ショックの後の不況の時で松下も半ドン制を行い不況対策を進め
た。そうした時に高畑さんに取材して特ダネを取った。高畑さんは松下幸之助さんの信頼
を得ておりこうした不況対策も松下さんと直接話をしていた。こうしたことから高畑さん
は突然、会社の取締役に選ばれて我々記者連中もびっくりした。組合のトップが経営陣に
なった背景には幸之助さんの考えがあった。経営者としての高畑さんは組合とは場違いの
ことも多く、やりにくいことが多かったようだ。
木村操・元名古屋鉄道社長
胆管がんのために2月8日死去。享年82歳。
広瀬貞雄・元富士紡績(現富士紡ホールディングス)社長
2月7日心不全のために死去。享年87歳。
朝日新聞出身で元テレビ朝日の広瀬道貞会長と大分県知事の勝貞氏の実兄。興銀にも
実弟がいたが早世した。父親は正雄氏で日田市長や郵政大臣を務めた。
佐々木隆之・元JR西日本鉄道社長
2月20日病気のため死去。享年73歳。
05年の福知山線脱線事故で在宅起訴された山崎正夫社長の辞任に伴い09年に副
社長から社長になった。事故を受けて安全性向上や被害者、遺族の対応に当たった
。12−16年会長を務めた。
子の神田松之亟,鯉栄、あぐりなどが並んだ。松之亟が2月には伯山を襲名することが披
露された。
最後は朝日新聞のOBである轡田隆史さんが三本締めで締めた。
(マスコミ編)
高畑敬一・松下電器産業(現パナソニック)常務
2月8日老衰のため死去。享年90歳
高畑さんは私が46年前に大阪経済部で松下電器を担当した時には労働組合の委員長だ
った。当時は第一次石油ショックの後の不況の時で松下も半ドン制を行い不況対策を進め
た。そうした時に高畑さんに取材して特ダネを取った。高畑さんは松下幸之助さんの信頼
を得ておりこうした不況対策も松下さんと直接話をしていた。こうしたことから高畑さん
は突然、会社の取締役に選ばれて我々記者連中もびっくりした。組合のトップが経営陣に
なった背景には幸之助さんの考えがあった。経営者としての高畑さんは組合とは場違いの
ことも多く、やりにくいことが多かったようだ。
木村操・元名古屋鉄道社長
胆管がんのために2月8日死去。享年82歳。
広瀬貞雄・元富士紡績(現富士紡ホールディングス)社長
2月7日心不全のために死去。享年87歳。
朝日新聞出身で元テレビ朝日の広瀬道貞会長と大分県知事の勝貞氏の実兄。興銀にも
実弟がいたが早世した。父親は正雄氏で日田市長や郵政大臣を務めた。
佐々木隆之・元JR西日本鉄道社長
2月20日病気のため死去。享年73歳。
05年の福知山線脱線事故で在宅起訴された山崎正夫社長の辞任に伴い09年に副
社長から社長になった。事故を受けて安全性向上や被害者、遺族の対応に当たった
。12−16年会長を務めた。
佐藤安弘キリンビール元社長
1月24日虚血性心疾患のため死去。享年83歳。
キリンビールは業界でトップの地位を占めていたが、アサヒビールに追いつかれぬかれ
たことから業績が悪くなった。佐藤さんが社長になった時が最悪な状態で大規模なリスト
ラをした。「100年の歴史で最初のこと。大変だった」といっていた。このリストラを
機にキリンの反転があった、といわれている。
水口弘一・元野村総合研究所社長
1月7日 死去 享年88歳
私が地方の前橋支局から昭和46年2月に東京経済部に上がってきて最初の担当は証券
業界だった。当時円の切り上げが問題になり1ドルいくらになるかが経済部の競争であっ
た。私は当時政界に強いといわれた野村証券の瀬川美能留・会長をマークすることになっ
た。毎朝、車で青山にある瀬川邸を訪れて取材した。その時に瀬川邸に来ていたのが秘書
の水口さんだった。そこで親しくなり情報ももらった。この水口さんが経済同友会の専務
理事になり、財界担当の私と付き合うようになった。代表幹事の会見には専務理事が出席
して会見を進める。「阿部ちゃんよろしく頼むよ」という声を今でも思い出す。当時の代
表幹事は石原俊・日産自動車会長だったと思う。
東大経済学部の卒業ということも同窓で親しみを覚えた。
荒川和夫元サッポロビール社長
1月5日死去享年92歳。
田中和泉・元TBS社長
1月20日心不全で死去。享年88歳。
1989年から91年まで社長を務めた。株の損失補填の問題が明るみになり辞任した
。経理局出身の初めての社長で宇宙特派員プロジェクトとして秋山豊寛氏を初めて宇宙飛
行に送り出した。
坪内祐三・評論家
1月13日急性心不全のために死去。享年61歳。
月刊誌「東京人」の編集者を経て評論家になる。夫人文子さんは朝日新聞論説委員で元
ワシントン特派員の山脇氏の元妻。
佐藤研一郎ローム創業者
1月15日閉そく性黄疸で死去。享年88歳。
立命館大の学生時代に抵抗器を開発して1954年ロームの前身である東洋電具製作所
を設立した。71年にシリコンバレーに進出するなど海外展開をして世界的な半導体メー
カーに育てた。私が日経新聞出身の徳永卓三が作った月刊誌「起業家倶楽部」に京都のベ
ンチャー企業を連載した時に「ローム」を取り上げた。佐藤氏はインタビューに応じなか
った。