2008.04.04 Friday
建築家の今里隆さん(80)が60年間の作品を写真にして「日本、そしてその美しさ」というテーマで4月21日から30日まで銀座8丁目の吉井画廊で開く。今里さんは東京美術学校(現東京藝術大学)の建築科を出て、吉田五十八教授について建築を学んだ。歌舞伎座や国技館など300の作品のうち40点を出品する。会場では作家の永井路子さんの「日本美へのまなざし」という巻頭言の在る「建築家今里隆の軌跡」という60ページの冊子を配る。
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2007.05.28 Monday
日本記者クラブでは映写会をしている。平日のときもあれば土曜日のこともある。時間が合う限り出るようにしている。5月19日(土曜日)に新藤兼人さんが原作・脚本・証言という映画「陸に上がった軍艦」(山本保博監督)をやった。このところ土曜日はゴルフのことが多いのだが、この日は空いていたので女房と行った。この映画は新藤さんが33歳で徴兵で海軍に行くったことの経験と敗戦になった前後のことが描かれている。海軍に入っていかに軍人が作られていくか。根性棒というもので殴られて軍人が出来ていくというおかしなことを、訴えている。一緒に入った兵隊はそれぞれが妻と子供を持っていて、休みの時には呼び寄せてわずかの逢瀬を楽しんでいた。そうした時に公園で親子が食事をしている時に上官に挨拶しなかったことで公衆、特に妻と子の面前で殴る蹴るの暴行を働く海軍の軍人。また、鉄兜が3個なくなった容疑で拷問を受けて軍法会議にかけられて無罪で出てきたが腑抜けのようになってしまった男。最後は板の戦車で訓練する海軍の状況までが描かれて、終戦になる。95歳になる新藤さんがこうした場面ごとに思い出を話す。戦争、特に海軍がいかにくだらないことをしていたか、が分かった。
 この日の日経の朝刊で「おつな寿司セミナー」で一緒の浦田憲治・日経編集委員が文化面で「城山三郎さんの遺稿から」ということで戦争体験を克明に書いていることが出ていた。城山さんは07年3月から「私の履歴者」を書くことになっていた。ところが病気で3月22日に死去したために完成しなかった。しかし、2月15日に娘さんの井上紀子さんからは15回分70枚の原稿が送られてきた。それによると「七つボタンの帝国海軍は堕落しきっていた。早朝から夜更けまで、バッターという棍棒を振り回す下士官たちや士官。それも罰するというのでは無く、ただ狂ったようにブカを殴りつけるだけ」という。城山さんは純粋な愛国心から敗戦の3カ月前に17歳で海軍特別幹部練習生として志願入隊した。徴兵で海軍に行った新藤さんとは違っているが、ひどい状態を体験したことでは同じである。
 月刊誌「BOSS」に頼まれて城山さんの作品である五島昇をモデルにした「ビックボーイの生涯 五島昇の生涯」を書いた。城山さんから財界活動の取材を受けただけに懐かしい本である。5月21日に都内のホテルでお別れ会が開かれ献花してきた。750人が参列した。
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2007.05.07 Monday
 荒木和男弁護士は九段中学校の同窓生である。中学二年の時に新潟県十日町から転校してきた。体の大きい男だなあという印象しかなかった。荒木君は小山台高校に進み、1年浪人して東大法学部に進んで、弁護士になった。東大時代に釣りの好きだった丹羽君(現在クラボウ会長)と一緒に釣りに行ったりしていた。この荒木君とは千代田区三番町で洋服屋をしている関光男君のところで集まって、食事や飲んだりして付き合うようになった。私の妻の実家で仕事の関係で問題が出た時に相談したりして、助けてくれた。料金なども良心的にしてくれいろいろな問題を持ち込んで解決してもらった。
この荒木君が、心臓が悪くなって入院して酒が飲めなくなってしまった。それまでは酒は日本酒が好きで新潟の八海山などを浴びるように飲んでいた。荒木君と1月20日に安田火災海上(現ジャパン損保)の宮武康夫・元社長のお別れ会で会った。宮武さんの娘婿が裁判官で、荒木君と司法修習生の同期だった、ということは聞いていた。酒を飲まなくなったのでやせていたが元気そうであった。ところが奥さんの恵美子さんが最後の挨拶をしているときに倒れてしまった。そばにいた私が支えてすぐにホテルの人に来てもらい、しばらく休んで元気になった。
この荒木君から「出版記念会をするので発起人になって欲しい」と頼んできた。丁度、宮城県知事であった浅野氏の「許される嘘、許されない嘘」の出版記念会をしようという時だった。発起人になることを引き受けた。   

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2007.01.30 Tuesday
九段中学校で同級生だった岡村大君から1月2日から7日まで銀座松坂屋別館5階のカトレヤサロンで「書作展」を開く、という案内をもらった。3年前にも開いており、その時の作品が良かったので、今回も行こうと思っていた。岡村君の父親も「天渓」と号した書道家である。九段高校から東北大学文学部に進みインド哲学を学んで、ミッション系の聖パウロ学園の教師になった。この学校は全寮制で、日ごろのしつけも厳しく鍛えていた。或る時、岡村君から電話が入った。
 「朝日新聞がうちの学校のことを取り上げて悪く書いているので、何とかならないのか?」
 ということである。
私は岡村君に担当していた当時の支局の記者に連絡して岡村君に「紹介しようか?」と話した。岡村君は「記者には取材に来て知っているので必要は無い。取材をしないようにできないのか」という。学校に不満を持っている父兄が朝日新聞に垂れ込んで、一方的に書いていることが気に食わないというわけである。その話の途中に岡村君が「記者が犬のようにかぎまわっている」といったので「そういう言い方は無いだろう。犬とは何だ」ということになり、それきりになった。それからしばらくして岡村君は学校をやめて書道家になった。
こうした展覧会に行くときに困るのは何を持っていくかである。音楽界なら花なのだろうが書道展なのでお菓子を持っていった。作品は「篆書」「隷書」「楷書」「行書」「草書」で書かれていた。篆書が岡村君としては一番作品が多かった。「雲白く遊子悲しむ」という島崎藤村の作品から取ったり、「一鳥鳴かず山更に幽なり」という王安石の漢詩からの作品が出ていた。隷書では「世辞浮雲 何ぞ問うに足らんや」という王維の漢詩があった。
岡村君としばらく話したが、小学校の生徒を教えているが、自由にやらせると篆書なども立派に作る、と話した。その作品を見せてくれた。大人の人が作ったのと変わりは無い。困っていることは作品を掛ける掛け軸や表装屋が少なくなってきていることだという。若者が継がないので老人が細々と続けている。「いつまでこの作品店が開かれるか分からない」と嘆いていた。久しぶりに正月らしく漢詩や和歌の世界を味わった。
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2006.05.31 Wednesday
「ニューリーダー6月号」で「わが私的新聞社論 朝日新聞は今何を目
指すべきか」を書いてます。お読みください。
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2006.04.06 Thursday
わが母校九段中学が閉校

 3月25日は土曜日だがあわただしい日になった。この日は私が通っていた千代田区立九段中学校が53年でなくなる儀式があった。「サヨナラ九段中学校 見納め会」が九段中学校であるからだ。私は九段中学の三期生である。出来て3年目に入った。地元の富士見小学校から進学した。当時は麹町中学校に行くはずであったが、麹町中学校が番町、麹町小学校に富士見、九段の4小学校から来るので多すぎるというので、麹町中学の分校として出来た。
 そんな事情は知らずに入学した。入ったときは校舎は無くて番町小学校に間借りした。半分の仲間は九段小学校で学ぶという変則な学校であった。1年の秋に現在の校舎が出来て移った。当時3年生の大山元さんが校旗を持って先頭に私達がその後に続いて歩いて行った。
 この九段中学校の生徒が少なくなったということと石原慎太郎・都知事の方針で中高一貫の学校を作るということで、九段高等学校と一緒になり「九段中等教育学校」に衣替えする。九段高校が校舎になり、九段中学は壊されて無くなる。後は公園か何かになるがまだ決まっていないようだ。
 この閉校式が午後1時から行なわれるのでその前に床屋に行ってさっぱりしていこうと思った。通いなれた飯田橋から九段にかけて床屋を探したが無かった。仕方が無いのでグランドパレスの床屋に入った。さっぱりして会場に行ったところ人であふれていた。この日に三期生の同期会を「メトロポリタン・エドモンド」で3時30分から行なうこともあって同期生が50人近く来ていた。私達同期生は、一かたまりになり記念写真を母校のシンボルである椎の樹の前で撮った。プロのカメラマンの杉山栄紘君が撮ってくれた。
 この日は良い天気で春うららの中で校舎に入って昔のことを思い出した。このみ納め会には900人が駈けつけた。卒業生が12350人なので1割近くの卒業生が来たことになる。
 最後は全員の記念写真を撮った後、幹事が「九段中学校、有難う」と絶唱して終わった。私は今でもこの中学の三年間で人生の基礎ができたと思っており、涙が出そうになった。その後の同期会にも60人近くの仲間が集まった。和歌山大の広瀬正紀教授なども来て盛り上がった。80すぎて傘寿の祝いをした大垣方孝先生や秋山和義先生など恩師が5人来ていただき、久し振りに
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2005.12.06 Tuesday
突然に電話があった。味の素の広報部にいた小暮正彰さんからである。小暮さんとは3年前の9月に開いた私の「冷やかす会」に来てくれた時に会っている。その時の縁で中学時代の友人の飯塚忠雄君(共同通信に入り経済部で活躍し、現在ジャーナリストの北沢栄氏)と慶応大学で一緒ということで3人で飲んだ。それ以来のことである。

 小暮さんは私が書いた「トヨタモデル」を読でいて、その感想を話したいと言う。休み前の11月22日に人形町の古い洋食屋で会った。私が味の素を担当した時に小暮さんと一緒に広報をした上原さんも来た。3人で久しぶりに昔話をした。こうした時に取材した時にはわからなかった事がわかって面白い。

 当時、渡辺文蔵相談役(元社長)が経団連農政問題懇談会の委員長をしていた。この懇談会で食品工業の原材料費が高いと言う報告書を出した。日本の農産物を保護する為に外国から輸入する原材料費が高くなってしまい、食品工業は競争力が弱くなる。このため農産物の保護政策は止めて欲しいと言う内容である。経団連に加盟している食品会社としては当然のことである。
 ところが北海道の旭川農民連盟がクレームをつけ味の素の不買運動を始めた。この不買運動は東京の新聞にはベタで出た。見落とす人も多かった。味の素のほか中内さんのダイエー、盛田さんのソニーが対象になった。私はこのニュースを聞いて不買運動はけしからん、と思ったが記事にすることはなかった。

 味の素にとっては大事件であった。小暮さんによると当時の営業担当の常務が旭川に飛んで説明する事が再三だった。味の素は今後こうした経団連活動はやらない、ということで収まった。渡辺氏は委員長を辞任した。
 小暮さんによるとこの時の会社のトップの慌てぶりは大変だった。私のところにも小暮さんが来たが私はたいした問題ではないので騒ぐことはないと言った。朝日新聞はこうした不買運動をされてきたが、そのたびに読者が応援してくれてしのいできた。

 小暮さんは現在、味の素の子会社の役員を辞めて慶応大学法学部政治学科3年生である。「法哲学」の蔭山宏教授のゼミを取っている。法学部は慶応で一番競争率が高いところで、小暮さんの出た経済学部を抜いている。学生と一緒に三田祭論文集を作り、小暮さんは「近代国家と万国博覧会―世界がはじめて交流する時代」という論文を出した。皆まじめで優秀、という。就職は味の素に行く学生は一人も居らず、外資系の金融機関や証券会社に行くのが多い。


 「慶応の学生も変わった」と話していた。
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2005.11.04 Friday
盛大だった75歳の作家デビューを祝う会

10月29日(土)に今やと時の人になった加藤廣さんの75歳作家デビューを祝う会が日本プレスセンターで開かれた。私は発起人の一人で打合せなどにも参加してきた。既にこの欄でも9月25日に加藤さんのことは紹介したが、毎月一回土曜日に開かれている「おつな寿司セミナー」で会っている。この加藤さんが昨年12月に毎年開かれているこのセミナーの忘年会で「来年には75歳で作家でデビューする。作品の名前は『信長の棺』です。原稿用紙400字で3千枚書いて700枚ぐらいに縮めて整理しています」と挨拶した。この会の長老である加藤さんがデビューすると言うのに皆びっくりしこの会で持ちきりだった。加藤さんは都立新宿高校(旧制6中)から東大法学部を経て、中小企業金融公庫の調査部長をして、山一證券などに務めて現在は経営コンサルタントをしている。

 この衝撃の挨拶の後、春先に出ると言った本が出ない。会があるたびに「どうしたのですか?」と言って冷やかしていた。日経新聞社から出ると言っていたが『幻の本』になるのではないかと思っていた。そうしているうちに織田信長の誕生日の6月2日に出版した。加藤さんは月に5千冊ずつコンスタントに売れ2万5千冊売れればよいと思っていた。ところが小泉首相が選挙に絡んで、この本を推薦した。特に、朝日新聞の政治面でこの本を読んでいると言うことが書かれてから爆発的に売れていった。この会で発表された数字は16万5千部である。

 この会にわざわざ出てきた日経新聞社の出版局編集部の源関隆部長は「いまや書店から早く持って来てくれといわれて困っている。印刷が間に合わない。この本は日経としても堺屋太一さんの『油断』以来です。『油断』が5万部だったことを考えると3倍以上売れています。ベストセラーです。加藤様様といえます」と手放しのほめようである。最後に挨拶にたった加藤氏は「私は親一人子一人の貧しい家に育ったので、まじめに勉強し法学部を出て生活のために就職しました。しかし、小さい時から作家になろうと思い文学部に行こうと思っていました。ずつと作家になるのが夢で小説を書きたいと思って来ました。小泉効果が出てこんなに売れるとはびっくりしてます」と挨拶をした。加藤さんは小泉首相が年金問題で「人生いろいろ」と言った時は「あの発言は許せない」と言っていた。この小泉首相からこの日、祝電が来ていた。皮肉なものである。
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2005.10.26 Wednesday


10月15日の土曜日に東京・有楽町のマリオンの前にある「ニュートーキョー」で我が日比谷高校1961年卒業の同期会をした。3年振りである。私は35ルームの幹事なので、半年前から打ち合わせをしてきた。31ルームの桧山彰君(元富士銀行)と36ルームの逆瀬川素行君(元三和銀行)が代表幹事で、我々が手伝う形である。
 打合せ会には各クラスから2−3人が日比谷高校にある「如蘭会館」に集まって、ワイワイがやがやして進める。幹事でもないのが来て酒を飲んで話して帰るのもいる。この打合せ会で、当日の役割を決めた。受付から始まり会計幹事までそれぞれ決まった。女の人が受け付けなどをしてくれることになる。司会は逆瀬川君と木村明子さんに決まり、乾杯を誰にするかで、私に決まった。「トヨタモデル」を書いていることや、文芸春秋に「奥田日本経団連会長の猛語録」書いて元気だということからである。
 乾杯の音頭というのはその会の長老で出番の無い人を決めるということが多い。そうした意味からも私が適当だろうということになった。
 当日は暑く蒸している日でのどが渇いた。130人ほど来て、前回より30%ほど増えた。日ごろ会っている嶌信彦君や蕪木寿君などのほか、久しぶりの人もいた。式は進んでいき乾杯の音頭になった。せっかくやるのだから何か話を入れようと考えた。ラグビー部の杉井健二君のことを話そうと思った。たまたま、本棚を整理していたら杉井君の追悼録「悠悠放浪」という本が4冊あった。5年前に13回忌のときに配った本が、あまっていた。この本を持っていき「乾杯の音頭の前に一言話をしたい。既に5%の人が亡くなっているが、杉井君もその一人である。たまたま今日、追悼録を持ってきたが弁護士で活躍して夏休みにトルコに行って賊に襲われて死んだ。この追悼録を今読み返しても、本当にいい友人を早く無くした。本を持ってきたので読んで欲しい。5%にならないように乾杯しましょう」と杯を上げた。
 杉井君はラグビー部で一緒に活動したがレギュラーにならずに辞めていった。東京外国語大、早稲田大の後に東大に入り、弁護士になった。嶌君とは小学校、中学校、高校と一緒である。追悼録も嶌君が中心になって作り、私も一文を書いた。この話を聞いて「杉井の本を見たい」「杉井の話をしてくれて有難う」という人もいて、乾杯の挨拶は無事に終わった。この日は同じニュートキョーの6階で2次会が行われ、6時過ぎまで思い出を話した。
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2005.08.24 Wednesday
今月号 文芸春秋にトヨタ奥田氏に関して執筆してます。
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