2010.06.02 Wednesday
2010年1月13日肺炎のため死去。享年94歳。お別れの会は開かれなかった。

 まだ正月気分の抜けない1月21日の新聞で佐古さんが死んだ事を知った。たまたま大成建設の社長、会長を務め佐古さんと同じコースを歩んだ元日建連会長の平島治氏に会い「お別れの会をしないのですか?」と聞いた。平島さんは「今の山内隆治社長は佐古さんと20歳以上歳が違い、全然知らないというんだ。お別れ会は開かれないだろうね」とそっけなく話した。山内社長にもこの話しをしたが「こういうご時勢だからお別れの会はしませんよ」という。

 佐古さんとは私が建設省(現国土交通省)の担当の時代に大成建設の社長を務めていた。当時の広報部長は植松隆澄氏でインタビューなどの時間を作ってくれた。当時は談合問題や汚職事件などがあり、なかなか社長に合わせない時代なのに佐古さんは気楽に会っていろいろな話をしてくれた。体の大きい頑健な人で笑い顔がなんとも言えず愛嬌があった。当時、日建連の会長は鹿島建設の石川六郎会長で、五島昇・東急電鉄会長の後の日商の会頭になる話が出た。佐古氏は建築業協会会長であった。日建連の会長で日商会頭は出来ないというので佐古さんが日建連の会長になった。佐古さんとは会う事も多くなった。東京・目黒区八雲の自宅に夜回りに行く事もあった。そうした時なども気さくに応対しくれた。

 私が名古屋経済部のデスクになった時に千代田生命の創業者の門野幾之進を記念する「門野幾之進記念館」(現鳥羽市歴史文化ガイドセンター)が鳥羽市に出来た。その披露式に行ったところ佐古さんが来賓として来ていた。「おお、元気かね」と気さくに声をかけてくれた。当時の千代田生命の神崎安太郎社長も接待役で来ており「佐古さんを知っているんですか?」といわれた事を思い出す。

 いまやこの日建連も建築業協会と日本土木工業協会(土工協)と3団体が2011年4月に統合する事になった。大成や鹿島などの大手ゼネコンも「コンクリートから人へ」という民主党政権下でこうした団体へのカネを出す事が出来なくなってきた。そうしたゼネコン冬の時代に佐古さんのお別れ会などは出来ないのだろう。植松さんは「本当に残念だ。佐古さんへのお別れをしたいという人は多い。何故、やらないのか。たいして金がかかるわけでもないのに」と怒っている。

 佐古さんに長く仕えていた水越正次さんは

 「とにかく丈夫な人でした。94歳で病床に着くまで病気をした事が無かった。74年に専務・営業本部長になってから寝食を忘れて社に貢献した営業屋です。早稲田の建築を出た技術屋ですが、プロの営業屋だと思います。付き合いも広く三菱地所の中田乙一さん、富士銀行(現みずほ銀行)の松沢卓二さん、日銀の三重野康さんなどと親しかったです。花柳界や新橋のおねえさんたちからも慕われて『大成の一、日本一』とか言われていました」

 と懐かしむ。

 佐古さんは社長の時代に奥さんを亡くされて、長女の佐々木由美子さんが面倒を見ていた。1年前に故郷の広島にいる妹と一緒に暮らしたい、ということで「やちよクリニック」(広島市)に入った。佐々木さんには「いろいろな人からお別れの会を開くのですか?」という問い合わせはたくさんあった。開いて欲しいという気持ちはあったが会社には一切話していない。佐々木さんは

 「父と暮らした30有余年を省みて思いますのは、そこにこそ父の思いやり、優しさを感じずにはいられません。『お疲れ様でした。ありがとう』と感謝をこめた」

 と話している。

| 追悼録 | 08:26 | - | - | pookmark |
2010.04.25 Sunday
追悼録 田中順一郎さん 三井不動産元社長

 2010年1月10日に多臓器不全のため死去。享年80歳。お別れの会は2月17日に帝国ホテルで行われた。

 田中さんの死亡を知らせた新聞は1月14日であった。身内だけで密葬を済ませた後にマスコミに連絡した。新聞にはべた記事で6行から9行という短いものであった。見落とす人も多かったと思う。肩書きも元三井不動産社長だけでありであり、不動産協会理事長や東京商工会議所副会頭、不動産証券化協会理事長などの肩書きは出ていなかった。個人的に長い付き合いであっただけにこの短い記事にはがっかりした。1社ぐらいは写真を入れて報道しても良いと思った。

 私が田中さんと最初に会ったのは25年前の85年7月29日で長野県茅野市にある「三井の森蓼科ゴルフ倶楽部」であった。朝日新聞名古屋本社の経済部デスクをしていた。友人の不動産流通経済の編集長だった小林惣一郎さんと不動産協会の松本隆正・常務理事とゴルフをする約束をした。そこに田中さんは奥さんの智子さんとゴルフに来ていた。田中さんは専務でレッツ事業本部長だった。松本さんが都合で来られなくなり小林さんと二人でその日は回った。翌日もプレーする予定だった。田中さんが「それでは一緒に回らないか」ということになり30日は田中夫妻と回った。私が94で周り、田中さんは87だった。

 名古屋のデスクから東京の経済部員に戻り財界担当になった。不動産業業界も守備範囲であった。当時は江戸英雄会長、坪井東社長で田中さんは専務であった。社長交代の話が出ており、江戸、坪井氏の家に夜回りをした。日経は長田公平記者(現日経専務)が担当して、坪井さんの家で鉢合わせするなどがあり、87年3月24日に「田中社長誕生」という記事を日経と同着だったが書いた。3段の見出しは実力者であった「江戸会長、退任」であった。江戸氏は19年社長、会長13年務めており、田中専務の社長よりも大きなニュースであった。

 バブルの時代に社長になった田中さんは決算は毎年、増収増益を続けた。ある時に田中さんに「土地が高くなって、年収の5倍以上では一般の人は買えませんよ。それなのに不動産会社は儲けてウハウハなのは問題ですよ。土地を安くできないんですか?」と訴えた。田中さんは「市場で決まっている値段を下げるわけには行かないんだ」と困った顔をしていた。しかし、こうした状態は長くは続かず土地は株とともに下がり始めた。地価税の創設などに田中さんは「土地を下げるのは結構だけれども、資産デフレになることも考えておかないと大変なことになる」と警告していた。不動産会社は儲けすぎである、という主張を続けていた朝日新聞のK編集委員と会いたいのでセットして欲しいという。二人で議論をしたが、すれ違いに終わり田中さんは「どうしても私の話を聞いてくれない。困ったものだ」と嘆いていた。

 土地が下がり始めて、不良資産が増えてその対策のために95年に「業務企画室」を作った。1兆2千億円近い有利子負債を減らすために資産の処分を積極的に進めた。そうした中で次の社長に岩沙弘道氏を指名した。取締役から社長まで4年だった。岩沙氏は田中さんと同じ慶応大卒でありある時、田中さんに「慶応ばかりでは、千代田生命や三越のようになってしまいますよ。人材はもっといるでしょう」と話したことがある。田中さんは「そうは言っても慶応の卒業生が多いんだから仕方がないよ」と話していた。

 岩沙さんは不動産の証券化を積極的に進めて業績を立て直した。田中さんに長く仕えた林洋太郎・セレスティン・ホテル社長(元三井不動産副社長)は「人をよく見ていた。人情家であり田中さんのためならという求心力を持っていた」と話していた。

 田中さんは日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)の勉強会に2回ほど講師で講演してもらった。不動産協会理事長としてもいろいろ配慮していただいた。このため、REJAでは田中さんの追悼の記をホームページで会員から応募したところ住宅問題評論家の加藤憲一郎氏や週間住宅新聞社新聞局長の松本英雄さんなど6人が書いている。

 住友不動産の長老である安藤太郎さんは100歳で元気である。この安藤さんは「俺の弔辞は田中君に頼んでいるので安心だ」と会う人ごとに言っていた。
| 追悼録 | 20:14 | - | - | pookmark |
2010.02.06 Saturday
 ニュービジネス協議会元専務理事 素心・不器会・会長

 2009年11月19日死去。享年80歳。12月21日に日本プレスセンタービルでお別れの会を開いた。

 下村さんが死去したことを勉強会の「大園会」を主催している森川宗弘さんのメールで見た。

 「あの下村さんが挨拶もせずに居なくなってしまった」という。このところの下村さんが会長をしている「素心・不器会」の朝の論語を読む勉強会に欠席していたのでどうしたのか、と心配していた。事務局をしている「日本企業調査会」に聞いたところ、19日に自宅で静かに眠るように死去した、という。私が下村さんと最初に会ったのは第4の財界団体を目指して発足した「ニュービジネス協議会」(NBC)の専務理事の時代である。当時の会長は日本電気の関本忠弘さんだった。理事会の後の記者会見で関本さんがとうとうとしゃべるのを下村さんはその補佐役としてそばにいた。当時のNBCはユニ・チャームの高原慶一朗社長やシダックスの志太勤社長、CSKの大川功社長(死去)などが出席して活発に活動していた。若手の経営者の勉強会なども泊り込みでやり、私も出席して桜ゴルフの佐川八重子さんやマルチサービスの角廣志さんなどと知り合った。

 会長がアサヒビールの樋口広太郎さんに代わって、専務理事もアサヒから来て、下村さんは退いた。

 下村さんは陽明学者の安岡正篤(まさひろ)さんに師事していた。大阪の毎日放送の社員の時代の1961年に安岡さんの講演を住友ホールに聞きに行った。そのときのことを「講義内容の迫力もさることながら、実はまず先生の涼やかな、なんともいえない美しい声に心を打たれてしまった。以後、先生の講演には機会あるごとに出かけるようになり、また個人的な会合の末席をけがし、先生がなくなるまでの23年間、親しく接触させていただいたのである」(「安岡正篤から学んだこと」 アーカイブス出版)と書いている。

 安岡さんの考えを広めようと06年9月に「素心・不器会」を作った。不器会という名前は論語から取ったもので茶碗や土瓶はその働きしかしないので、立派な人になるにはこうした器であってはならない、ということからきている。この会では第3水曜日の朝7時から銀座のレストランで「論語」と安岡さんの書いた「百朝集」の読書会をしている。下村さんからこの会に来るように勧められて、07年2月から出席している。会長の下村さんが挨拶をして始まる。下村さんは挨拶すると、「こちらに来て座りなさい」と前の席を勧める。

 この会で論語を解説しているのは安岡さんの孫である定子さんである。定子さんは

 「出会ったのは20歳の頃で、いつも笑顔で颯爽としており、若い私などにも気さくに声をかけてくださっていました。結婚まもない頃に古典の勉強会にも誘ってくださいました。いつだったか麻布のてんぷら屋さんに誘っていただきカウンターに並んでお食事をしたことが楽しい思い出として残っています。昨年、『こども論語塾』(明治書院)を出版した時は『良い本だ』と褒めてくださった時は嬉しかったです」

 と思い出を話した。

 下村さんは多くのインフォーマル・グループの仕掛け人でもあり演出者でもあり「会魔」といわれてきた。勉強会の横断的な組織である「知恵の輪」の代表を務めていた。

こうした会で協力し、家族ぐるみの付き合いだった古宮道世・日本科学振興財団理事長は

 「面倒見が良いので、いろいろな人を紹介してくるのです。中にはとんでもない人もいて迷惑なこともありました。いい加減にしてくださいよ、といいました。しかし、憎めない人だったですね」

 と話していた。
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